Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

アメリカの地政学10:1945-1991冷戦

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では、アメリカの地政学を学ぶために冷戦の概観把握とアメリカ大統領及びソ連書記長の確認から始める。

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第一に、ゆげひろのぶ氏の3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編に同書p.56-7に従って「冷戦の荒波」を3つに分けて把握する。[US歴]および【括弧】内はSynmeが追記した。

  1. 【冷戦第一波】 1945年[US169]終戦〜1950年[US174]朝鮮戦争〜雪どけ【1959年[US183]キャンプデービット会談】
  2. 【冷戦第二波】 雪どけ〜1962年[US186]キューバ危機〜デタント【1973年[US197]パリ和平協定調印(ベトナム戦争停戦合意)】
  3. 【冷戦第三波】 デタント〜新冷戦【1979年[US203]のソ連アフガニスタン侵攻】〜ソ連崩壊1991年[US215]

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第二に、「冷戦の荒波」に関与したアメリカ大統領を確認する。それぞれ、「冷戦の荒波」の中の位置づけもSynmeなりに追記した。

まず、【冷戦第一波】に関与したのは、F.Roosevelt、Truman、Eisenhowerの3人の大統領だ。F.Rooseveltの死去(1945年[US169]4月12日)により米ソの対立は高まり始めた。Trumanの下で高まっていった米ソの緊張は朝鮮戦争の勃発(1950年[US174]6月25日)によって冷戦最初のピークに達した。Eisenhowerによる対立緩和の結果としてEisenhowerとフルシチョフとのキャンプデービット会談(1959年[US183]9月25−27日)に至った。

  • Franklin Delano Roosevelt第32代大統領(1933年[US157]3月4日〜1945年[US169]4月12日)
  • Harry S. Truman第33代大統領(1945年[US169]4月12日〜1953年[US177]1月20日)
  • Dwight David Eisenhower第34代大統領(1953年[US177]1月20日〜1961年[US185]1月20日)

Eisenhower在任中のU-2撃墜事件(1960年[US184]5月1日)を機にアメリカとソ連の関係は悪化。J.F.Kennedyが就任するも、キューバ危機(1962年[US186]10月16-28日)勃発により米ソの対立は冷戦第二にして最悪のピークに達した。Eisenhowerが始め、J.F.Kennedyが継続、Johsonが拡大したベトナム戦争(第2次インドシナ戦争)が行き詰まる中、Nixonが就任してパリ和平協定の調印(1973年[US]1月27日)によるベトナム戦争停戦にこぎ着けた。

  • Dwight David Eisenhower第34代大統領(1953年[US177]1月20日〜1961年[US185]1月20日)
  • John Fitzgerald Kennedy第35代大統領(1961年[US185]1月20日〜1963年[US187]11月22日)
  • Lyndon Baines Johnson第36代大統領(1963年[US187]11月22日〜1969年[US193]1月20日)
  • Richard Milhous Nixon第37代大統領(1969年[US193]1月20日〜1974年[US198]8月9日)

 最後に【冷戦第三波】に関与したのは、Nixon、Ford、Carter、Reagan、G.H.Bushの5人の大統領だ。NixonとFordはむしろ関与できなかったと言った方が良いかもしれない。折角のパリ和平協定調印にも関わらず、ウォーターゲート事件でNixonとFordはベトナムを放置。結局、南アジアではベトナムラオスカンボジア共産国家が誕生した。中東ではアフガニスタン共産国家が誕生し、これを支援するソ連のアフガン侵攻(1979年[US203]12月24日)によって米ソ対立は第三かつ最後のピークに達した。アフガン侵攻の長期化がソ連の財政を圧迫し、Reaganの掲げた戦略防衛構想に端を発する軍拡競争に対抗する力を有していなかったソ連では政治経済の改革を目指すゴルバチョフが書記長に就任(1985年[US209]3月11日)して、1991年[US215]12月25日にソ連崩壊。冷戦は終結に向かった。

  • Richard Milhous Nixon第37代大統領(1969年[US193]1月20日〜1974年[US198]8月9日)
  • Gerald Rudolph Ford第38代大統領(1974年[US198]8月9日〜1977年[US201]1月20日)
  • James Earl Carter Jr.第39代大統領(1977年[US201]1月20日〜1981年[US205]1月20日)
  • Ronald Wilson Reagan第40代大統領(1981年[US205]1月20日〜1989年[US213]1月20日)
  • George Hebert Bush第41代大統領(1989年[US213]1月20日〜1993年[US217]1月20日)

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第三に、冷戦に関与したソ連の書記長も確認しておく。なお、表記はラテン語表記にした。

  • Joseph Vissarionovich Stalin書記長(1922年[US146]4月3日〜1953年[US177]3月5日)
  • Georgy Maximilianovich Malenkov筆頭書記(1953年[US177]3月5日〜13日)
  • Nikita Sergeyevich Khrushchev第一書記(1953年[US177]3月14日筆頭書記、9月7日第一書記〜1964年[US188]10月14日)
  • Leonid Il'ich Brezhnev書記長(1964年[US]10月14日〜1982年[US]11月10日)
  • Yurii Vladimirovich Andropov書記長(1982年[US]11月12日〜1984年[US]2月9日)
  • Konstantin Ustinovich Chernenko書記長(1984年[US]2月13日〜1985年[US]3月10日)
  • Mikhail Sergeevich Gorbachev書記長(1985年[US]3月11日〜1991年[US]8月24日)

 

文責:鵄士縦七 

 

3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編

3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編

 

 

アメリカの地政学09

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ここまで高橋洋一氏の世界のニュースがわかる! 図解地政学入門をベースにしてアメリカの地政学(具体的には、米西戦争第一次世界大戦第二次世界大戦朝鮮戦争ベトナム戦争(第2次インドシナ戦争)と5つの戦争)を学んできた。

高橋氏の同書では、これら5つの戦争に続けて、キューバ危機、イラン・イラク戦争湾岸戦争を扱っている。しかし、Synmeはいったん同書から離れ、次のようにアメリカの地政学の学習を続けることにする。

まず、朝鮮戦争ベトナム戦争(第2次インドシナ戦争)は既に冷戦が始まって以降の戦争であり、冷戦の一部をなしている。クールにザックリ学びたいSynmeとしては、冷戦をまとめて理解したい。そのために、3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編p.56-7に言う「冷戦の荒波」をベースに冷戦をクールにザックリ学ぶ。

加えて、時間軸のズレもある。高橋氏の同書は米西戦争の1898年[US122]が起点だった。Synmeは日本の現在の外交・軍事の起点は「いや〜ござったペリーさん」の1853年[US077]と考えているので、もう少し遡りたいのである。そこで、100年予測 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)p.68-9の以下の一文を参考に、米英戦争米墨戦争南北戦争をクールにザックリ学ぶ。

(中略)アメリカは、その歴史全体のおよそ10%の期間を、戦争に費やしている。この場合の戦争とは、一八一二年戦争(米英戦争)、アメリカ・メキシコ戦争米墨戦争)、南北戦争、第一次および第二次世界大戦朝鮮戦争ベトナム戦争の大規模な戦争を指し、米西戦争や「砂漠の嵐」といった小規模な紛争は含まない。

 上記の3つの戦争の年代を確認しておく。ついでに革命戦争も学びたいので追加しておく。

  1. 1775年[bUS001] 革命戦争(〜1783年[US007])
  2. 1812年[US036] 米英戦争(~1814年[US038])
  3. 1846年[US070] 米墨戦争(〜1848年[US072])
  4. 1861年[US085] 南北戦争(〜1865年[US089])

「冷戦の荒波」と上記4つの戦争を学んだ上で、 世界のニュースがわかる! 図解地政学入門p.220-6「中東とアメリカ」に戻っていくのが今のところのSynmeの予定である。

 

文責:鵄士縦七

 

3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編

3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編

 
100年予測 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

100年予測 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 
世界のニュースがわかる! 図解地政学入門

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アメリカの地政学08:1955-1975ベトナム戦争(第2次インドシナ戦争)Vol.2

前回の学習を踏まえて、高橋洋一氏の世界のニュースがわかる! 図解地政学入門ベトナム戦争(第2次インドシナ戦争)がどのように説明されているかをまとめておく。

まず、ごく簡単に第1次インドシナ戦争について。第二次世界大戦後のベトナムは、日本政府が降伏文書に調印した1945年[US169]9月2日に独立を宣言した。しかしフランスは植民地支配を継続しようとベトナムを攻撃し、1946年[US170]に第1次インドシナ戦争が勃発。8年後の1954年[US178]にようやくジュネーブ協定が結ばれて停戦した。

次に、アメリカの介入・傀儡政権成立(1955年[US179]10月26日)について、高橋氏はベトナム民主共和国の成立(1945年[US169]9月2日)、共産党チャイナの成立(1949年[US173]10月1日)と立て続けに社会主義国が誕生したことでアメリカがアジア一帯の共産化を懸念したことが背景と指摘している。

実際、南ベトナムだけでなく、ラオスカンボジアでも南ベトナム解放民族戦線の勢力(ラオスでは左派(パテート・ラーオ)、カンボジアではクメール・ルージュ)が勝利した。ラオス人民民主共和国の成立(1975年[US199])、民主カンボジアの成立(1976年[US200])とアジアの共産化はドミノ倒しのように進んだ。

高橋氏は、アメリカの介入の程度にも言及している。1965年[US189]から北爆を開始したこと、地上部隊も最終的には50万人に達したことなどを指摘している。

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加えて、ベトナム戦争(第2次インドシナ戦争)に関わったアメリカ大統領についても確認しておく。Synmeはベトナム戦争(第2次インドシナ戦争)の期間を1955年[US179]から1975年[US199]までとしているので、以下の5人のアメリカ大統領が関わったことになる。

  • Dwight David Eisenhower第34代大統領(1953年[US177]1月20日〜1961年[US185]1月20日)
  • John Fitzgerald Kennedy第35代大統領(1961年[US185]1月20日〜1963年[US187]11月22日)
  • Lyndon Baines Johnson第36代大統領(1963年[US187]11月22日〜1969年[US193]1月20日)
  • Richard Milhous Nixon第37代大統領(1969年[US193]1月20日〜1974年[US198]8月9日)
  • Gerald Rudolph Ford第38代大統領(1974年[US198]8月9日〜1977年[US201]1月20日)

Synmeなりにザックリまとめると以下の様になる。まとめの下に、ベトナム戦争とアメリカ大統領に関する事項を列挙しておいた。

Eisenhower大統領がフランスに代わってベトナムに介入。1961年[US185]にJ.F.Kennedy大統領が就任して、特殊部隊を派遣、軍事物資支援を増強したが、1963年[US187]に暗殺されてしまう。大統領に昇格したJohnson海兵隊および陸軍を派遣して戦争を拡大した。最盛期の1968年[US192]のアメリカ地上軍は50万人!しかし、一向に勝てない。1968年[US192]末にNixon大統領が当選し1973年[US197]に停戦協定まで持ち込むも、翌1974年[US198]にウォーターゲート事件で辞任してしまう。アメリカ軍の撤退は既に完了していてアメリカ国民はベトナム戦争に興味を失い、昇格したFord大統領も何もせず、放置されたベトナム共和国は崩壊してしまった。

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  • 1953年[US] 1月20日Eisenhower大統領就任。7月27日朝鮮戦争休戦協定調印
  • 1954年[US] 7月ジュネーブ協定成立。9月米仏会談にてアメリカが1955年[US]1月からインドシナ諸国に対して直接の援助を行うことを決定
  • 1955年[US] 10月26日ベトナム共和国成立。アメリカは軍事支援を開始
  • 1956年[US] 11月Eisenhower大統領が再選 
  • 1960年[US] 11月J.F.Kennedy大統領が当選。12月20日NLF(南ベトナム民族解放戦線)結成
  • 1961年[US] 1月20日J.F.Kennedy大統領就任。5月アメリカは特殊作戦部隊600人(軍事顧問団)の派遣と軍事物資の支援増強を決定。クラスター爆弾、ナパーム弾、枯葉剤を使用する攻撃開始
  • 1963年[US] 11月22日J.F.Kennedy暗殺、Johnsonが大統領に昇格
  • 1964年[US] 8月7日アメリカ上下両院でトンキン湾決議承認。Johnson大統領は実質的な戦時大権を獲得。11月Johnson大統領が再選 
  • 1965年[US] 2月7日北爆開始。3月8日アメリカ海兵隊3,500人がダナンに上陸。7月28日アメリカ陸軍の派遣発表
  • 1968年[US] アメリカは最盛期で一度に50万人の地上軍を投入。1月29日テト攻勢ベトナム民主共和国軍と南ベトナム解放民族戦線によるベトナム共和国軍とアメリカ軍に対する大規模な一斉攻撃)。10月北爆停止。11月Nixon大統領が当選
  • 1972年[US196] 2月21日Nixon大統領がチャイナ訪問。5月8日北爆再開決定。11月Nixon大統領が再選
  • 1973年[US197] 1月27日パリ和平協定調印。1月29日Nixon大統領がベトナム戦争終結宣言。3月29日アメリカ軍の撤退完了、ただしアメリカ軍の「軍事顧問団」は規模を縮小し残留、軍事物資の供給も継続
  • 1974年[US198] 8月9日Nixon大統領辞任、Fordが大統領に昇格。アメリカはベトナム戦争に興味を失う
  • 1975年[US199] 3月10日ベトナム民主共和国は「アメリカの再介入はない」と判断し、南北ベトナム統一を目指してベトナム共和国軍に対する全面攻撃(Ho Chi Minh作戦)を開始。4月30日サイゴン陥落、ベトナム共和国崩壊
  • 1976年[US200] 7月2日南北統一ベトナム社会主義共和国に改称。11月Ford大統領が選挙に敗れる

 

文責:鵄士縦七 

 

世界のニュースがわかる! 図解地政学入門

世界のニュースがわかる! 図解地政学入門

 

アメリカの地政学07:1955-1975ベトナム戦争(第2次インドシナ戦争)

ひきつづきアメリカの地政学としてベトナム戦争(第2次インドシナ戦争)を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。

北緯17度線で南北に分断されていたベトナムで、1955年[US179]南ベトナム傀儡政権が成立すると内戦勃発。アメリカ・南ベトナム北ベトナム・NLF等が戦い、内戦に介入したアメリカが実質的に敗北した。1973年[US197]にパリ和平協定が調印されたがアメリカ軍の全面撤退後は停戦合意は守られず、攻撃を継続した北ベトナムによって1975年[US199]に南ベトナムは崩壊し、約20年に渡ったベトナム戦争(第2次インドシナ戦争)は終結した。翌1976年[US200]に南北ベトナム統一とベトナム社会主義共和国樹立が宣言された。 

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さて、学んで行く。まず、少しだけ時間を遡る必要がある。1954年[US178]7月にジュネーブ協定が成立し、第1次インドシナ戦争終結した。同協定は、フランス軍の完全撤退、ベトナム民主共和国北ベトナム)の独立承認、北緯17度を南北の暫定的軍事境界線とすること(南北分断)、そして南北統一のための自由総選挙を1956年[US180]7月までに実施することを内容とした。なお、ベトナム民主共和国北ベトナム)は、1945年[US169]9月2日に、Ho Chi Minhがハノイでその独立を宣言していた。

しかし、アメリカとベトナム国南ベトナム、フランスの傀儡)はジュネーブ協定の調印に参加しなかった。1955年[US179]10月26日にアメリカの傀儡であるベトナム共和国南ベトナム)が成立し、南北統一選挙も拒否。これに反発して1960年[US184]12月20日にはNLF(National Liberation Front(南ベトナム解放民族戦線)の略称)が結成された。翌年、NLFはベトナム共和国南ベトナム)とアメリカの打倒を掲げて宣戦布告。ベトナムは内戦状態に陥った。

ジュネーブ協定にはチャイナとソ連も参加していたので、分断国家の成立過程は朝鮮半島の南北分断と似ていた。しかし、アメリカが反共の傀儡政権を作ることでベトナムの内戦に介入した形となった(統一後のベトナムでは米国戦争あるいは抗米救国戦争と呼ばれている)こと、南(ベトナム共和国)側の内部でNLFという国家統一を望む勢力が結集した(朝鮮半島の場合、南北は互いに自身による半島統一を望むに留まった)こと等が異なる点であるとSynmeは考える。

また、1973年[US197]にパリ和平協定が調印されてアメリカは同年1月29日にベトナム戦争終結を宣言した。しかし、停戦合意は守られずベトナム民主共和国北ベトナム)は攻撃を継続し、1975年[US199]4月30日のサイゴン陥落によってベトナム共和国南ベトナム)は崩壊してしまった。アメリカが実質的に敗北した帰結である。

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なお、ベトナム戦争(第2次インドシナ戦争)の期間だがSynmeはベトナム共和国南ベトナム)の成立(1955年[US179])から崩壊(1975年[US199])までとした。高橋洋一氏は世界のニュースがわかる! 図解地政学入門において、NLFの成立した1960年[US184]をもって戦争開始としている。

  

文責:鵄士縦七 

 

アメリカの地政学06:1950-1953朝鮮戦争

さて、高橋洋一氏の世界のニュースがわかる! 図解地政学入門に戻って朝鮮戦争を学ぶ。最初に、朝鮮戦争をクールにザックリまとめる。

1950年[US174]朝鮮戦争勃発。当初は、北朝鮮が韓国に侵攻した戦争だった。しかし、韓国軍の北緯38度線独断先行突破を機に戦争は長期化し、アメリカとチャイナの代理戦争となった。シーソーゲームと化した戦争は1953年[US177]に結局元通りの北緯38度線で休戦。定義上は現在も終結していない。

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戦争の経過を高橋氏は以下の年表にまとめている。【括弧】内はSynmeが追記。

  • 1950年6月25日 北朝鮮軍、38度線を超えて南進開始。朝鮮戦争勃発
  • 1950年9月15日〜30日 国連軍、仁川上陸作戦
  • 1950年10月1日 韓国軍、国連軍、38度線を超えて北進【これを機に長期化】
  • 1950年10月18日 中国人民解放軍が参戦
  • 1951年1月15日 国連軍、37度線まで後退
  • 1951年1月25日〜6月15日 再び北進する国連軍と中朝軍が38度線〜37度線の間で激突
  • 1951年7月10日 戦闘が続くなか休戦会談開始
  • 1953年7月27日 休戦協定調印

シーソーゲームという以外に表現のしようがないが、38度線の回復だけが念頭にあり、朝鮮半島統一を目標としていなかったアメリカにとっては、1950年9月30日で休戦したかったというのが本音のところではないかとSynmeは思う。

アメリカとしては第二次世界大戦後の対共産主義の戦いが始まったばかりの中で負けられない戦いに巻き込まれただけで得るものは特になかった。とにかく、休戦によってアジアにおいて朝鮮半島南部まで到達した自国の影響力を維持できたこと、翌1951年[US175]の日米安全保障条約の締結によって日本をアジアにおける同盟国に引き上げる契機となったことなどがアメリカにとっての朝鮮戦争の意義であろうか。

北朝鮮のKim Il-sung首相がソ連のJoseph StalinとチャイナのMao Zedongの承認を取り付けた上で韓国に侵攻したこと、韓国のSyngman Rhee大統領がソウル回復後に独断専行で韓国軍に38度線を突破させたことにより国連軍(アメリカ軍主体)も北進せざるを得なくなったこと等を見ると、冷戦の枠組みと言うよりは朝鮮半島の政争にアメリカとチャイナが巻き込まれた戦争であったようにもSynmeには思える。

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高橋洋一氏の世界のニュースがわかる! 図解地政学入門に加えて、石平氏朝鮮半島はなぜいつも地獄が繰り返されるのか 中国人ですら韓民族に関わりたくない本当の理由で補足しながら朝鮮戦争の背景をもう少し学ぶ。

朝鮮総督府は、日本のポツダム宣言受諾を知っていたため、1945年[US169]8月15日に左翼民族主義者のYo Un-hyungに治安維持と日本人の生命財産を保障するよう協力を求めた。Yo Un-hyungは政治犯の釈放や独立運動への不干渉などを条件に受諾し、同日中に朝鮮建国準備委員会を結成した。同委員会は同年9月6日に全国人民代表者大会を開催し、朝鮮人民共和国の樹立を宣言している。

一方、アメリカとソ連は日本の降伏以前に協議し、38度線を軍事境界線とすることを取り決めていた。まず、同年8月16日にソ連軍が満州から朝鮮半島に侵攻。平壌に進軍して司令部を置いた。次いで、9月8日にアメリカ軍が仁川から上陸。京城に進駐して軍政庁を置いた。

また、同年12月16日にはアメリカ、ソ連、イギリスによる3国外相会議が開かれ、朝鮮民族自身の臨時政府の設置、米ソによる共同委員会の設置、5年間の信託統治下で、臨時政府と共同委員会との協議によって朝鮮の独立と統一を実現させていくことが発表された(モスクワ協定)。ところが、モスクワ協定を巡って激しい朝鮮民族内で政治闘争が展開。米ソは翌1946年[US170]3月20日から第1次米ソ共同委員会 を開催するも5月8日に無期限休会状態に陥る。1947年[US171]5月21日から第2次米ソ共同委員会を開催するも8月12日に完全決裂。

結局、南だけの単独国政選挙が実施され、Syngman Rheeが初代大統領に選出された後、1948年[US172]8月15日に大韓民国が成立した。国政選挙に反対していた北は、同年9月9日に朝鮮民主主義人民共和国の建国を宣言。Kim Il-sungは初代首相となった。韓国と北朝鮮はその成立当初から、自分の政府を朝鮮半島における「唯一の合法政権」と宣言し、お互いの政権を完全否定している。

 

文責:鵄士縦七 

 

世界のニュースがわかる! 図解地政学入門

世界のニュースがわかる! 図解地政学入門

 

アメリカの地政学05:1939-1945第二次世界大戦Vol.2

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第二次世界大戦に関するSynmeの備忘として、いくつか記載する。

まず、第二次世界大戦勃発前後のアメリカ国内の状況について学ぶ。具体的には、中立法とレンドリース法の成立、そしてアメリカ第32代大統領Franklin Delano Rooseveltの3選について押さえておく。

次いで、各国の犠牲について考える。

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1935年[US159]〜37年[US161]アメリカ議会は、交戦国への武器輸出や借款を禁止し、非軍事物資に関しても現金取引・自国船運搬に限ることを定めた一連の中立法を成立させた。

アメリカが欧州におけるナチスドイツと英仏の戦争に巻き込まれることを危惧したことが背景。

ドイツにおいて、1933年[US157]1月30日にAdolf Hitlerが首相に任命されていた。同年3月23日に全権委任法(正式名称は「民族および国家の危難を除去するための法律」)が成立して、Hitler内閣にワイマール憲法に拘束されない無制限の立法権を授権した。

同法成立をもって第三帝国ナチスドイツ)が始まっていたので、アメリカ議会が抱いた危惧は具体的なものだったわけだ。

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1940年[US164]11月にFranklin Delano Rooseveltが大統領選に勝利し3選された。3選されたF.Roosevelt大統領の下、アメリカは孤立主義から第二次世界大戦参戦へと大きく舵を切ったのだ。

F.Roosevelt大統領の3つの演説と談話を押さえておく。第1は1937年10月5日の隔離演説で、国際的な「侵略国の隔離」の必要を説くもの。名指しはされなかったが、ナチスドイツ、イタリア、日本を指すと解された。米国内では評価されず、具体的な政策にはいたらなかった。

第2は3選当選後の1940年12月29日の「民主主義の兵器廠」談話で、アメリカの直接の参戦を否定しつつ「われわれは、民主主義の大兵器廠とならなければならない」とナチスドイツ、イタリア、日本への対抗姿勢を明らかにしたもの。炉辺談話(F.Rooseveltが毎週行っていたラジオ演説)の1つである。

第3は屈辱演説で、真珠湾攻撃翌日に日本への宣戦布告を議会に求めたもの。演説冒頭で「屈辱の日」という表現を用いたため、こう呼ばれる。

なお、F.Rooseveltは唯一の4選されたアメリカ大統領である。初代のGeorge Washington大統領が3選を固辞したことに基づく「大統領は2選まで」という慣例を、戦時・有事を理由に破った。F.Rooseveltアメリカ第32代大統領は1933年[US157]3月4日から1945年[US169]4月12日に脳溢血で亡くなるまでの約12年間大統領の職にあった。後にアメリカの憲法が改正され(修正第22条1951年)、正式に大統領は2期までと定められた。

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最後に、第二次世界大戦における各国の犠牲を比較する。3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編p.45によると各国の死傷者数は以下のようになる。ソ連、ドイツ、日本に比較すれば、アメリカの死傷者数は相対的に限られていたことが分かる。

  • ソ連:2,060万人
  • フランス:75万人
  • イギリス:98万人
  • アメリカ:113万人
  • ドイツ:950万人
  • 日本:646万人
  • イタリア:78万人

ドイツ、日本、イタリアは敗戦国であり、本土も戦場となった。戦勝国で見ても降伏したフランス、ナチスドイツの大空襲を受けたイギリスに比べて、アメリカ本土はまったく戦地とならなかった。

死傷者数すなわち人的損失、本土が攻撃にさらされることによる物的損失、どちらの面からもアメリカの払った犠牲は相対的に軽微だったとsynmeは考える。

 

文責:鵄士縦七

 

3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編

3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編

 

 

 

アメリカの地政学04:1939-1945第二次世界大戦

ひきつづきアメリカの地政学高橋洋一氏の世界のニュースがわかる! 図解地政学入門に学ぶ。続いて第二次世界大戦。最初に、クールにザックリまとめる。

1939年[US163]第二次世界大戦勃発(〜1945年[US169])。アメリカは当初は参戦しなかったが、1941年[US165]12月7日の真珠湾攻撃を機に参戦して連合国を勝利に導いた。アメリカ自身わずかな犠牲の見返りとして、北大西洋、西ヨーロッパ、日本、朝鮮半島などで多大な戦果を得た。

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さて、学んで行く。第二次世界大戦は、1939年[US163]8月23日の独ソ不可侵条約締結の翌週9月1日にドイツ軍がポーランドに侵攻したことによって始まった。独ソ不可侵条約と同時に秘密議定書が締結されており、ドイツとソ連ポーランドの分割占領に合意していた。戦争は約6年続き、1945年[US169]9月2日の日本と連合国の間の降伏文書調印によって終結した。

アメリカは、1941年[US165]12月7日(日本時間8日)の真珠湾攻撃を機に参戦した。アジアでは、グアム島等の日本に占領された領土を奪還し、東京大空襲、沖縄の占領、広島と長崎への原爆投下等により日本を降伏させた。ヨーロッパでもノルマンディ上陸作戦を成功させ、ソ連軍、イギリス軍と共に東西からドイツに進撃する等してドイツの降伏につなげた。

アメリカは、大西洋・欧州において、①レンドリース法によりイギリスからニューファンドランドバミューダ諸島、イギリス領西インド諸島の軍事基地の提供を受け、②ドイツ降伏後の西ヨーロッパに進駐、③ドイツについては連合国4ヶ国の一角として占領統治した(アメリカの他はイギリス、フランス、ソ連の3ヶ国)。そして太平洋において、④グアム島等の領土を奪還、⑤日本をアメリカ軍のDouglas MacArthur元帥が連合国最高司令官として間接統治し、⑥沖縄県小笠原諸島をアメリカ施政権下に置き、⑦朝鮮半島の38度線以南を軍政下に置いた。

そして、これらの戦果はわずかな犠牲の見返りとして得られたものだった。ジョージ・フリードマン氏は100年予測 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)p.44-5で以下のように書いている。

イギリスは西半球に持っていたほとんどの海軍施設をアメリカに譲ったのだ。アメリカがこれらの施設を支配下に置いたことと、アメリカ海軍が大西洋の巡視で大きな役割を果たしたことを受けて、イギリスは北大西洋へのカギをアメリカに引き渡さざるを得なくなった。(中略)

(中略)アメリカが失った兵はおよそ50万人で、民間人犠牲者はほとんどいなかった。戦争終結時、アメリカの工場は戦前より大幅に生産性を高めていた。(中略)アメリカは(真珠湾を除けば)都市に爆撃も受けず、(アリューシャン列島の2つの小島を除けば)領土を占領されることもなかった。アメリカが出した犠牲者の数は、全世界の犠牲者の1%にも満たなかった。

アメリカはこのわずかな犠牲の見返りとして、第二次世界大戦後に北大西洋のみならず、世界のすべての海域の支配をもって浮上した。それだけでなく西ヨーロッパを占領し、フランス、オランダ、ベルギー、イタリア、さらにはイギリスの命運をも方向づけた。その一方で、あたかもヨーロッパ戦役へのつけ足しであるかのように、日本を征服、占領した。

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アメリカは上述の通り、真珠湾攻撃を機に第二次世界大戦に参戦した。ただし、同1941年[US165]3月11日にはレンドリース法を成立させ、イギリスはじめ連合国への武器売却・譲渡を含む軍需物資供給を始めていた。また、8月14日にはイギリスと大西洋憲章を発表しているが、同憲章は戦後の世界構想を内容としていた。

そもそも、アメリカは、1939年[US163]9月3日のイギリスの対ドイツ宣戦布告直後に「安全水域」をアメリカ沿岸部に設定しており、参戦前にドイツに対する敵対的な行動を開始していた。

 

文責:鵄士縦七

 

世界のニュースがわかる! 図解地政学入門

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100年予測 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

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