Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

アメリカの地政学30:19世紀末インディアン戦争

革命戦争(1775年[bUS001]4月19日〜1783年[US007]9月3日)まで遡ってアメリカの地政学を学んできたが、米西戦争以前の最後の回として、インディアン戦争について学ぶ。インディアン戦争について学ぶと言っても、19世紀後半の戦闘をいくつか学ぶに留まる。最初に、クールにザックリまとめる。

19世紀後半、拡大した領土内において、アメリカはスー族、アパッチ族ナバホ族などとインディアン戦争を続けていた。19世紀末(例えば、ウンデット・ニーの虐殺は1890年[US114])を境にインディアンによる大規模な抵抗は行われなくなった 

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白人入植者によるインディアンの征服戦争を総称してインディアン戦争という。イギリスがアメリカ大陸への入植を始めた17世紀前半から、白人入植者は、植民地の安全確保と拡大のために、インディアン部族間の争いを利用し、代理戦争を行わせた。

19世紀後半、アメリカは、植民地の安全確保と拡大に加えて金鉱を求めて、インディアン戦争を継承していた。具体的には、大平原のスー族(ブラックヒルズ戦争(1876年[US100]~1877年[US101])、ウンデット・ニーの虐殺(1890年[US114]12月29日))や南西部の略奪民アパッチ族Geronimoの抵抗・降伏(アパッチ戦争、1882年[US106]~1886年[US110]))、ナバホ族などのインディアンの最大抵抗勢力を排除していった。

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スー(Sioux)族は、アメリカ北部中西部に先住するインディアン部族である、ダコタ族、ラコタ族、およびナコタ族の総称。

ブラックヒルズ戦争はスー族の領土にあるブラックヒルズの金鉱を占領するため、アメリカが和平条約を破ってスー族、シャイアン族、アラパホー族インディアンに対して行ったインディアン戦争。 

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アパッチ(Apache)族は、6つの文化的に関連のあるアメリカ・インディアン部族の総称。いずれも南アサバスカ語系の言語を話す。 アメリカはナバホ(Navajo)族をアパッチ族と混同・同視していたようだ

南西部で最後の大規模な作戦計画にアメリカ軍は5,000名の兵士を投入した。この作戦でアパッチ族Geronimoと24名の戦士、女子供が1886年に降伏し南西部で最後の大規模な作戦計画は5,000名の兵士を投入した。この作戦でアパッチ族ジェロニモと24名の戦士、女子供が1886年に降伏した。

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ナバホ族(Navajo)は、アメリカの南西部に先住するインディアン部族。アサバスカ諸語を話すディネの一族。ナバホ族アリゾナ州の北東部からニューメキシコ州にまたがるフォー・コーナーズの沙漠地帯に、一定の自治権保有した「ナバホ・ネイション (Navajo Nation)」として、アメリカ最大の保留地(Reservation)を領有している。ロング・ウォークでナバホ族が南西部から追い出された間に、彼らの土地にはホピ族の一部が定住した。このため、現在ではナバホ族の保留地の中に、ホピ族の保留地が存在するという状況となっている。

Lincoln大統領は、1863年夏、保留地に入ることを拒んで抵抗戦を続けていたナバホ族の殲滅を命じた。アメリカ軍は焦土作戦ナバホ族の力を削いだ。1864年[US088]、アメリカ軍はナバホ族をサムナー砦の収容所ボスク・ルドンドまで、「ロング・ウォーク・オブ・ナバホ」と呼ばれる、徒歩連行を強制した。8,000人が収容され強制労働に従事させられ、1868年に和平協定で元の土地に戻るまでに、2000人のナバホ族が死んだ。

 

文責:鵄士縦七 

アメリカの地政学29:18670330アラスカ購入

ひきつづきアメリカの地政学としてアラスカ購入を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。

1867年[US091]、アメリカはクリミア戦争で疲弊したロシアから720万ドルでアラスカを購入する条約に調印した。

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クリミア戦争(1853年[US077]3月28日〜1856年[US080]3月30日)で疲弊し、アラスカの売却を決めたロシアが、敵対したイギリスを避け、アメリカを買い手に選んだ。1867年[US091]3月30日、アメリカはロシアから720万ドルでアラスカを購入する条約に調印した。

アメリカ側の交渉を担ったのは国務長官William Henry Sewardであった。購入直後は、「スワードの愚行」あるいは「スワードの冷蔵庫」等と批判されたようだ。戦略的に正しい外交・戦争は国民に支持されるとは限らない(むしろ大批判されることも多い)という典型例だとSynmeは思う。

同1867年[US091]10月18日アラスカが引き渡され、実質的なアメリカの領土となった。アメリカではこの10月18日はAlaska Dayという記念日とされている。

ちなみに、条約調印の3月30日にちなみ、アメリカでは3月最終月曜日をSeward Dayという記念日としている。

 

ロシアは毛皮採取、鉱物採掘を目的として18世紀から北アメリカの太平洋岸に進出していた。サンフランシスコのすぐ北に砦(フォート・ロス)を築くまで南下していた。

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アラスカ購入後のアメリカ領土の地図は以下を参照して下さい。

https://ja.wikipedia.org/wiki/アメリカ合衆国領土の変遷#/media/File:United_States_1867-10-1868.png

 

文責:鵄士縦七

アメリカの地政学28:1861-1865南北戦争

今回はアメリカの地政学として、アメリカ唯一の内戦である南北戦争を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。

1861年[US085]南北戦争勃発(〜1865年[US089])。4年を超える内戦で約50万人の戦死者を出しながらもアメリカ合衆国(USA)がアメリカ連合国(CSA)に勝利して、国家の統一を保った

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1861年[US085]4月12日、アメリカ史上唯一の内戦(南北戦争、The Civil War)勃発。約50万人の戦死者を出しながらも、保護貿易を求める北部自由州(アメリカ合衆国、USA(United States of America))が自由貿易奴隷制存続を掲げて独立を求めた南部奴隷州(アメリカ連合国、CSA(Confederate States of America))に勝利(1865年[US089]4月9日にアポマトックス・コートハウスの戦いに敗北した南軍リー将軍北軍グラント将軍に降伏。南北戦争は事実上終結した。)して、国家の統一を保った。

連合国の範囲(参照:アメリカ連合国 - Wikipedia)を確認しよう。連合国形成、南北戦争勃発の経緯も以下の通り。 

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この南北戦争を戦ったのがAbraham Lincoln第16代大統領(在任:1861年[US085]3月4日〜1865年[US089]4月15日)である。

ルイジアナ購入や米墨戦争勝利などの相次ぐ領土拡大が南北対立の背景だが、Lincoln大統領の当選(1860年[US084]11月)が南部奴隷州の連邦脱退の直接の契機であった。実際、Lincoln大統領就任(1861年[US085]3月4日)の1ヶ月前にCSAが成立している。

また、1865年[US089]4月9日に南北戦争が事実上集結し、その6日後の4月15日にLincolnは暗殺されている。その4年と少しの任期の大半は北軍のリーダーとしてアメリカの統一を維持すべく戦うことに費やされ、Lincolnが統一アメリカの大統領だったのは4月10日〜15日のたった6日間だけだった。

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カンザスネブラスカ法について、少しだけ触れておく。

カンザスネブラスカ法は、1854年[US078]にカンザス準州ネブラスカ準州を創設して新しい土地を開放し、1820年[US044]のミズーリ妥協を撤廃し、2つの準州開拓者達がその領域内で奴隷制を認めるかどうかは自分達で決めることを認めた法律である。この法律は民主党上院議員スティーブン・ダグラスによって考案された。

 

文責:鵄士縦七 

アメリカの地政学18

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今回から、当初の予定通り少し遡って下記4つの戦争を学ぶ予定だった。

  1. 1775年[bUS001] 革命戦争(アメリカ独立戦争)(〜1783年[US007])
  2. 1812年[US036] 米英戦争(~1814年[US038])
  3. 1846年[US070] 米墨戦争(〜1848年[US072])
  4. 1861年[US085] 南北戦争(〜1865年[US089])

synme.hatenablog.com

 

しかし、アメリカの地政学について、Synmeが冷戦と革命戦争(アメリカ独立戦争)を学ぶ過程で、2つのWikipedia記事(アメリカ軍 - Wikipediaアメリカ合衆国領土の変遷 - Wikipedia)がとても有用だった。

そして、これらを参照しつつ改めてアメリカの地政学の学習方針を検討すると、戦争だけでなく条約締結や購入(Purchase)によってアメリカ大陸の土地取得を進めていく米西戦争以前については、4つの戦争を含めて下記11個のイベントを学ぶべきだとSynmeは考えた。当初予定より長くはなるが、必要・有用とSynmeは考える。1つずつ、基本のスタンスに戻って、クールにザックリ学びたい。

  1. 1775年[bUS001] 革命戦争(アメリカ独立戦争)(〜1783年[US007])
  2. 1803年[US027] ルイジアナ購入
  3. 1812年[US036] 米英戦争1812年戦争)(~1814年[US038])
  4. 1818年[US042] 1818年条約
  5. 1819年[US043] アダムズ・オニス条約
  6. 1846年[US070] オレゴン条約
  7. 1846年[US070] 米墨戦争(〜1848年[US072])
  8. 1853年[US077] ガズデン条約
  9. 1861年[US085] 南北戦争(〜1865年[US089])
  10. 1867年[US091] アラスカ購入
  11. インディアン戦争:
    1876年[US100] ブラックヒルズ戦争(~1877年[US101])
    1882年[US106] アパッチ戦争(Geronimoの抵抗)(~1886年[US110]) 

インディアン戦争について、少しだけ付け加える。1620年[bUS156]にピルグリム・ファーザーズがプリマス植民地に到着した頃は、インディアンと白人の友好関係があったようだ。インディアン戦争については、諸説あるものの1622年3月22日のジェームズタウンの虐殺が最初の抗争として知られているようだ。

上記で学ぶのは、19世紀末にアメリカ軍とスー族およびアパッチ族それぞれが戦った戦争であり非常に限定的であることを最初に断っておく。

 

文責:鵄士縦七 

 

参照:

アメリカ軍 - Wikipedia

アメリカ合衆国領土の変遷 - Wikipedia

アメリカの地政学17:1945-1991冷戦Vol.8

前回までゆげひろのぶ氏の3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編に基づき6回に分けて学んできた通り、1941年[US165]にイギリスの跡を継いで超大国(世界帝国)となったアメリカは、【冷戦の荒波】を乗り切って、1991年[US215]建国215年目のクリスマスに冷戦に勝利した。

改めて、もう少し短くまとめると、

【冷戦第一波】Trumanの原爆投下により決定的となった米ソ対立は、封じ込め政策・欧州復興計画やNATO設立により欧州で緊張を高めた。一方、ソ連の原爆保有と共産チャイナの成立によりアジアで朝鮮戦争が勃発(1950年[US174])した。Truman退任、Stalin死去により、朝鮮戦争は休戦しKhrushchev訪米(1959年[US183])が実現。しかし、数多の軍事同盟締結、ワルシャワ条約機構設立、ミサイル開発競争など東西陣営の対立は激化。

【冷戦第二波】U-2撃墜事件(1960年[US184])を機にJ.F.KennedyとKhrushchevは対立を深めた。ベルリンの壁建設でベルリン危機は回避されたが、キューバ危機勃発(1962年[US186])により冷戦第二にして最悪のピークに達した。Johsonによりベトナム戦争は泥沼化。Nixonがソ連、中国との緊張緩和、ベトナム戦争停戦(1973年[US197])を達成した。 

【冷戦第三波】南アジアや中東で共産国家誕生が相次ぐ中、イラン革命を背景としてソ連のアフガン侵攻(1979年[US203])によって、米ソ対立は第三かつ最後のピークに達した。 ソ連は、アフガン侵攻の泥沼化でReaganの仕掛けた更なる軍拡競争に対抗できなかった。Gorbachevが書記長に就任(1985年[US209])してアフガニスタンから撤退、G.H.Bushと冷戦終結を宣言(マルタ会談)したが、1991年[US215]にソ連は崩壊した。

これを基に、アメリカの地政学という趣旨に戻って、アメリカの視点で、冷戦をクールにザックリまとめると以下の通り。

【冷戦第一波】アメリカは原爆投下により対決姿勢を鮮明にし、封じ込め政策・欧州復興計画やNATO設立により欧州でソ連と対立した。一方、ソ連の原爆保有達成を背景に、アジアで朝鮮戦争が勃発(1950年[US174])したが、北緯38度線は譲らなかった。アメリカは朝鮮戦争を休戦しKhrushchev訪米(1959年[US183])を実現させる一方で、数多の軍事同盟を締結して西側陣営の拡充を図るも、ワルシャワ条約機構設立、ミサイル開発競争など東側陣営との対立は激化。

【冷戦第二波】アメリカの高高度偵察機が撃墜され、(U-2撃墜事件、1960年[US184]たことを機にソ連との対立が表面化。ベルリン危機は外交で回避に成功したが、キューバ革命政権の転覆には失敗しキューバ危機(1962年[US186])を招く。核戦争の危機は回避され、アメリカは泥沼化したベトナム戦争を外交で停戦(1973年[US197])まで持ち込んだ。 

【冷戦第三波】しかし、アメリカは内政で混乱し、南アジアや中東諸国の共産化を止められなかった。親米のイランまで反米に転じてしまった結果、ソ連のアフガン侵攻(1979年[US203])を招く。 ところが、アフガン侵攻が泥沼化してソ連が苦境に。アメリカは更なる軍拡競争を仕掛けて、ソ連をギブアップさせた。Gorbachevが書記長に就任(1985年[US209])し、アメリカとソ連で冷戦終結を宣言(マルタ会談)したが、東側陣営の求心力を失ったソ連1991年[US215]に崩壊。アメリカが冷戦に勝利した。

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Synmeの能力不足で学習に長く掛かってしまった冷戦、至らないところは多いと思うが以上でとりあえずいったん終了。

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Synmeが過去6回に掲載した「冷戦の荒波」の"クールにザックリ"部分も再掲しておく。

【冷戦第一波】

第二次世界大戦中から燻っていた米ソの対立は、Trumanの原爆投下により決定的となった。Trumanの封じ込め政策・欧州復興計画やチェコスロバキア政変を端緒とするNATO設立により、欧州での対立が高まって行った。アメリカの予想より早いソ連の原爆保有と共産チャイナの成立によりアジアでの東西バランスが崩れた結果として、1950年[US174]朝鮮戦争が勃発した。

synme.hatenablog.com

Truman不出馬・退任、Stalin死去。EisenhowerとKhrushchevにより、朝鮮戦争および第1次インドシナ戦争は休戦となり、1959年[US183]のKhrushchev訪米に至る。しかし、アメリカの数多くの軍事同盟締結、ワルシャワ条約機構設立など東西陣営の対立の構図は鮮明になっていった。ソ連ICBM発射実験および人工衛星打上げを成功させミサイル開発競争において優位に立った。

synme.hatenablog.com

【冷戦第二波】

Eisenhower在任中のU-2撃墜事件(1960年[US184]5月1日)を機にアメリカとソ連の関係は悪化。J.F.Kennedyが就任するも、キューバ革命東ドイツからの人口流出を背景にJ.F.KennedyとKhrushchevはベルリンとキューバで対立を深めた。ベルリンの壁建設でベルリン危機は回避されたが、キューバ危機(1962年[US186]10月16-28日)勃発により米ソの対立は冷戦第二にして最悪のピークに達した。

synme.hatenablog.com

キューバ危機を受けて、部分的核実験禁止条約が締結されるなどした。J.F.Kennedyが暗殺され、Johsonは(Eisenhowerが始め、J.F.Kennedyが継続した)ベトナム戦争を拡大したが行き詰まる。Nixonが就任すると、ソ連、中国との緊張緩和を進め、SALT I 妥結(1972年[US196])、ベトナム戦争停戦(1973年[US197])を達成した。

synme.hatenablog.com

【冷戦第三波】

折角のパリ和平協定調印にも関わらず、アメリカはベトナムを放置。南アジアではベトナムラオスカンボジア共産国家が誕生し、中東でもアフガニスタン共産国家が誕生した。米ソデタントの流れは続いていたが、イラン革命を背景としてイスラム原理主義革命がアフガニスタン経由で飛び火してくることを懸念したソ連のアフガン侵攻(1979年[US203])によって、米ソ対立は第三かつ最後のピークに達した。 

synme.hatenablog.com

 ソ連は、アフガン侵攻の長期化に財政を圧迫され、Reaganの掲げたスターウォーズ計画(更なる軍拡競争)に対抗する力を有していなかった。Brezhnev、Andropov、Chernenkoが相次いで死去すると、政治経済の改革を目指すGorbachevが書記長に就任した(1985年[US209])。GorbachevはReaganとINF全廃条約を締結、アフガニスタンから撤退、G.H.Bushと冷戦終結を宣言(マルタ会談)したが、東欧革命・ドイツ統一バルト三国再独立等が相次ぎ、1991年[US215]にソ連は崩壊した。

synme.hatenablog.com

 

文責:鵄士縦七 

 

3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編

3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編

 

アメリカの地政学16:1945-1991冷戦Vol.7

ひきつづき、ゆげひろのぶ氏の3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編に【冷戦第三波】を学ぶ。最初に、【冷静第三波】の対立が緩和していく過程についてクールにザックリまとめる。

ソ連は、アフガン侵攻の長期化に財政を圧迫され、Reaganの掲げたスターウォーズ計画(更なる軍拡競争)に対抗する力を有していなかった。Brezhnev、Andropov、Chernenkoが相次いで死去すると、政治経済の改革を目指すGorbachevが書記長に就任した(1985年[US209])。GorbachevはReaganとINF全廃条約を締結、アフガニスタンから撤退、G.H.Bushと冷戦終結を宣言(マルタ会談)したが、東欧革命・ドイツ統一バルト三国再独立等が相次ぎ、1991年[US215]にソ連は崩壊した。

前回までの冷戦:

第二次世界大戦中から燻っていた米ソの対立は、Trumanの原爆投下により決定的となった。Trumanの封じ込め政策・欧州復興計画やチェコスロバキア政変を端緒とするNATO設立により、欧州での対立が高まって行った。アメリカの予想より早いソ連の原爆保有と共産チャイナの成立によりアジアでの東西バランスが崩れた結果として、1950年[US174]朝鮮戦争が勃発した。

Truman不出馬・退任、Stalin死去。EisenhowerとKhrushchevにより、朝鮮戦争および第1次インドシナ戦争は休戦となり、1959年[US183]のKhrushchev訪米に至る。しかし、アメリカの数多くの軍事同盟締結、ワルシャワ条約機構設立など東西陣営の対立の構図は鮮明になっていった。ソ連ICBM発射実験および人工衛星打上げを成功させミサイル開発競争において優位に立った。

Eisenhower在任中のU-2撃墜事件(1960年[US184]5月1日)を機にアメリカとソ連の関係は悪化。J.F.Kennedyが就任するも、キューバ革命東ドイツからの人口流出を背景にJ.F.KennedyとKhrushchevはベルリンとキューバで対立を深めた。ベルリンの壁建設でベルリン危機は回避されたが、キューバ危機(1962年[US186]10月16-28日)勃発により米ソの対立は冷戦第二にして最悪のピークに達した。

キューバ危機を受けて、部分的核実験禁止条約が締結されるなどした。J.F.Kennedyが暗殺され、Johsonは(Eisenhowerが始め、J.F.Kennedyが継続した)ベトナム戦争を拡大したが行き詰まる。Nixonが就任すると、ソ連、中国との緊張緩和を進め、SALT I 妥結(1972年[US196])、ベトナム戦争停戦(1973年[US197])を達成した。 

折角のパリ和平協定調印にも関わらず、アメリカはベトナムを放置。南アジアではベトナムラオスカンボジア共産国家が誕生し、中東でもアフガニスタン共産国家が誕生した。米ソデタントの流れは続いていたが、イラン革命を背景としてイスラム原理主義革命がアフガニスタン経由で飛び火してくることを懸念したソ連のアフガン侵攻(1979年[US203])によって、米ソ対立は第三かつ最後のピークに達した。  

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【冷静第三波】の対立が緩和していく過程に起こった出来事は以下の通り。

1979年12月24日【冷戦第三波TOP】ソ連アフガニスタンに侵攻。明示的に米ソは対立することとなった。新ソ的な新政権を樹立し、半年程度でソ連軍を撤退させる計画だったが、反政府勢力の台頭や活動の活発化などによって治安が急速に悪化。ソ連軍はアフガニスタンに留まり、治安作戦とアフガニスタン政府軍の訓練に従事することとなってしまった。結局、ソ連は1989年2月15日の撤退完了まで9年超という長期間を費やし、戦死者約15,000人という多大な犠牲を払うこととなった。

1980年5月21日 映画『スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲』が劇場公開

1980年9月22日 イラン・イラク戦争勃発(~1988年8月20日)。原油価格が更に高騰した。

1980年11月4日 現職のCarter大統領を、共和党のReaganが破って当選。

1981年1月20日 アメリカ第40代大統領Reagan就任。同日に、イランアメリカ大使館占拠事件(1979年11月4日)の人質が444日振りに解放された。

1982年[US]11月12日 Brezhnev死去により、Andropov書記長就任。病弱であったため、1984年2月9日に死去。

1983年3月23日 Reaganによる戦略防衛構想(Strategic Defense Initiative (SDI)、スターウォーズ計画)演説。衛星軌道上にミサイル衛星やレーザー衛星、早期警戒衛星などを配備、それらと地上の迎撃システムが連携して敵国の大陸間弾道弾(ICBM)を各飛翔段階で迎撃、撃墜し、アメリカ合衆国本土への被害を最小限に留めることを目的にした。

アメリカの軍備はそもそも数の上ではソ連に及ばなかったが、先端技術を保持し続けていた。しかし、1980年代におけるソ連の科学技術の進歩はアメリカとソ連の軍備の質の差も縮めていた。

アメリカが一方的に戦略防衛構想(スターウォーズ計画)を進めることで、ソ連は一層の軍備拡張を強いられることとなった。ただでさえアフガニスタン侵攻の泥沼化に苦しんでいたソ連財政赤字を拡大させた。ゆげ氏によると、史上最も金のかかったヴェトナム戦争よりもはるかに大きい予算がこのスターウォーズ計画に投入された(3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編p.218)。

1984年[US]2月13日 Andropov死去により、Chernenko書記長就任。病弱であったため、1985年3月10日に死去。

1984年11月6日 Reagan大統領再選。

1985年3月11日 Gorbachev書記長就任。停滞していたソ連の政治経済の抜本的改革を目指しペレストロイカ(改革)を推進した。

1986年1月28日 アメリカのスペースシャトルチャレンジャー号が射ち上げから73秒後に分解し、7名の乗組員が死亡した(チャレンジャー号爆発事故)。結果、シャトルの打ち上げは中断された。ディスカバリー号が打ち上げられたのは1988年9月29日午前11時37分だった。

1986年4月26日1時23分 ソ連(現ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所4号炉が炉心融解メルトダウン)の後に爆発した。この事故の結果、グラスノスチ(情報公開)が進展。

1987年12月8日 アメリカとソ連が中距離核戦力(Intermediate-Range Nuclear Forces)全廃条約調印。射程が500〜5,500kmの範囲の核弾頭、及び通常弾頭を搭載した地上発射型の弾道ミサイルと巡航ミサイルの廃棄を求める内容。条約が定める期限である1991年6月1日までに合計で2,692基の兵器が破壊された。内訳はアメリカ合衆国が846基、ソビエト連邦が1,846基である。またこの条約の下では両方の国家は、互いの軍隊の装備を査察することを許された。

1988年3月 Gorbachevが新ベオグラード宣言を発表。従来のBrezhnev Doctrine(制限主権論)を否定して東欧諸国の自立、民主化を容認。

1988年4月14日 アフガニスタンパキスタンソ連、アメリカの4カ国が、「アフガニスタンに関係する事態の調停のための相互関係に関する協定(ジュネーヴ協定)」に署名(5月15日発効)。ソ連軍の半数が1988年8月15日までに撤退し、それより9ヶ月以内に全部隊の撤退が完了することが決定される。 

1988年11月8日 アメリカ大統領選で、現職副大統領であったG.H.BushがReagan政策の継承を掲げて当選。

1989年2月15日 ソ連軍のアフガニスタンからの完全撤退が完了。 

1989年6月18日 普通選挙実施により、ポーランド第三共和国成立。

1989年10月23日 ハンガリー共和国憲法施行により、ハンガリー第三共和国成立。

1989年11月9日 ベルリンの壁崩壊

1989年11月17日 チェコスロバキア社会主義共和国で共産党支配を倒す民主化革命(ビロード革命)勃発。

1989年12月2日〜3日 マルタ島で行われたアメリカとソ連の首脳会談。冷戦の終結を宣言したが、特に何の合意もされなかった。

1989年12月25日 ルーマニア成立。ルーマニア共産党の最高指導者であったNicolae Ceaușescu大統領夫妻が処刑され、ルーマニア社会主義共和国崩壊。

1990年3月11日 リトアニアソ連からの分離・独立を宣言。

1990年5月4日 ラトビアソ連からの分離・独立を宣言。

1990年10月3日 東西ドイツ統一

1991年8月19日 ソ連8月クーデター(ロシア8月革命)勃発。改革派のGorbachevに対し、守旧派が起こしたクーデター。しかし、Boris Yeltsinを中心とした市民の抵抗により失敗に終わった。

1991年8月20日 エストニア共和国ソ連からの分離・独立を宣言。リトアニアラトビアも再独立。

1991年[US215]12月25日【冷戦第三波BOTTOM】ソビエト連邦崩壊。これにより、1917年11月7日のロシア革命十月革命)からロシア内戦を経て1922年12月30日に成立したソビエト連邦は、69年後のクリスマスに崩壊した。

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冷戦第三波に関与したのは、Nixon、Ford、Carter、Reagan、G.H.Bushの5人の大統領だ。

  • Richard Milhous Nixon第37代大統領(1969年[US193]1月20日〜1974年[US198]8月9日)
  • Gerald Rudolph Ford第38代大統領(1974年[US198]8月9日〜1977年[US201]1月20日)
  • James Earl Carter Jr.第39代大統領(1977年[US201]1月20日〜1981年[US205]1月20日)
  • Ronald Wilson Reagan第40代大統領(1981年[US205]1月20日〜1989年[US213]1月20日)
  • George Hebert Bush第41代大統領(1989年[US213]1月20日〜1993年[US217]1月20日)

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冷戦第三波に関与したソ連の書記長は以下の通り。

  • Leonid Il'ich Brezhnev書記長(1964年[US]10月14日〜1982年[US]11月10日)
  • Yurii Vladimirovich Andropov書記長(1982年[US]11月12日〜1984年[US]2月9日)
  • Konstantin Ustinovich Chernenko書記長(1984年[US]2月13日〜1985年[US]3月10日)
  • Mikhail Sergeevich Gorbachev書記長(1985年[US]3月11日〜1991年[US]8月24日)

 

文責:鵄士縦七 

 

3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編

3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編

 

 

アメリカの地政学15:1945-1991冷戦Vol.6

続いて、ゆげひろのぶ氏の3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編に【冷戦第三波】を学ぶ。最初に、【冷静第三波】の緊張が高まっていく過程についてクールにザックリまとめる。

折角のパリ和平協定調印にも関わらず、アメリカはベトナムを放置。南アジアではベトナムラオスカンボジア共産国家が誕生し、中東でもアフガニスタン共産国家が誕生した。米ソデタントの流れは続いていたが、イラン革命を背景としてイスラム原理主義革命がアフガニスタン経由で飛び火してくることを懸念したソ連のアフガン侵攻(1979年[US203])によって、米ソ対立は第三かつ最後のピークに達した。 

前回までの冷戦:

第二次世界大戦中から燻っていた米ソの対立は、Trumanの原爆投下により決定的となった。Trumanの封じ込め政策・欧州復興計画やチェコスロバキア政変を端緒とするNATO設立により、欧州での対立が高まって行った。アメリカの予想より早いソ連の原爆保有と共産チャイナの成立によりアジアでの東西バランスが崩れた結果として、1950年[US174]朝鮮戦争が勃発した。

Truman不出馬・退任、Stalin死去。EisenhowerとKhrushchevにより、朝鮮戦争および第1次インドシナ戦争は休戦となり、1959年[US183]のKhrushchev訪米に至る。しかし、アメリカの数多くの軍事同盟締結、ワルシャワ条約機構設立など東西陣営の対立の構図は鮮明になっていった。ソ連ICBM発射実験および人工衛星打上げを成功させミサイル開発競争において優位に立った。

Eisenhower在任中のU-2撃墜事件(1960年[US184]5月1日)を機にアメリカとソ連の関係は悪化。J.F.Kennedyが就任するも、キューバ革命東ドイツからの人口流出を背景にJ.F.KennedyとKhrushchevはベルリンとキューバで対立を深めた。ベルリンの壁建設でベルリン危機は回避されたが、キューバ危機(1962年[US186]10月16-28日)勃発により米ソの対立は冷戦第二にして最悪のピークに達した。

キューバ危機を受けて、部分的核実験禁止条約が締結されるなどした。J.F.Kennedyが暗殺され、Johsonは(Eisenhowerが始め、J.F.Kennedyが継続した)ベトナム戦争を拡大したが行き詰まる。Nixonが就任すると、ソ連、中国との緊張緩和を進め、SALT I 妥結(1972年[US196])、ベトナム戦争停戦(1973年[US197])を達成した。 

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【冷静第三波】の緊張が高まっていく過程に起こった出来事は以下の通り。

1972年6月17日 ウォーターゲート事件が発覚。民主党選挙対策本部があるウォータゲートビルで5人の男が盗聴器を仕掛けている最中にガードマンに捕まった(3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編p.204)。

1972年11月7日 Nixon大統領再選。

1973年1月27日【冷戦第二波BOTTOM】パリ和平協定調印。

1973年1月29日 Nixon大統領がベトナム戦争終結宣言。3月29日アメリカ軍の撤退完了、ただしアメリカ軍の「軍事顧問団」は規模を縮小し残留、軍事物資の供給も継続

1973年7月17日 アフガニスタンでクーデター。王制を廃止し、アフガニスタン共和国成立。

1973年10月6日 第4次中東戦争勃発。6年前の第3次中東戦争イスラエルに占領された領土の奪回を目的としてエジプト・シリア両軍がそれぞれスエズ運河ゴラン高原正面に展開するイスラエル軍に対して攻撃を開始した。

1973年10月16日 石油輸出国機構 (OPEC)に加盟のペルシア湾岸産油6カ国は、原油公示価格を21%引き上げと、原油生産の削減とイスラエル支援国への禁輸を決定する(第1次石油危機)。

1974年8月9日 Nixon大統領辞任、Fordが大統領に昇格。Nixonはアメリカ史上唯一の辞任した大統領である。

1975年[US199]3月10日 ベトナム民主共和国は「アメリカの再介入はない」と判断し、南北ベトナム統一を目指してベトナム共和国軍に対する全面攻撃(Ho Chi Minh作戦)を開始。

1975年4月17日 民主カンボジア成立。カンボジアクメール・ルージュプノンペンを制圧、実権を掌握。

1975年4月30日 サイゴン陥落、ベトナム共和国崩壊。

1975年12月2日 ラオス人民民主共和国成立。1974年に右派、中立派、左派(パテート・ラーオ)連合によるラオス民族連合政府が成立していたが、サイゴン陥落を受けて連合政府が王政の廃止を宣言した。

1976年[US200]7月2日 ベトナム社会主義共和国成立。ベトナム南北統一。

1976年11月2日 Ford大統領が選挙に敗れる。Fordはアメリカ史上唯一の選挙で勝利したことのない大統領である。すなわち、Kennedy暗殺により選挙の洗礼を受けることなく副大統領となり、Nixon辞任によりそのまま大統領に昇格した異例の政治家だった。

1977年1月20日 アメリカ第39代大統領Carter就任

1978年4月27日 アフガニスタンでクーデター(4月革命)。アフガニスタン人民民主党が政権を掌握し、アフガニスタン民主共和国成立。

1978年9月5日 Carter大統領、イスラエル首相、エジプト大統領の三首脳が会談。和平合意に達する(キャンプ・デービッド合意)。

1979年1月1日 米中国交正常化

1979年2月11日 イラン革命勃発。反体制勢力が権力掌握し、パフラヴィー朝滅亡。新米国家だったイランが反米国家になってしまった。

イラン・パフラヴィー朝においては、1951年8月19日に親米英的なMohammad Rezā Shāh Pahlavi皇帝が権力を回復。1955年2月24日にイギリス、トルコ、パキスタンイラク王国と共にバグダード条約を調印し、中東条約機構(Middle East Treaty Organization)を発足させていた。中東条約機構には、アメリカがオブザーバー参加していた。

イラン革命によりイランでの石油生産が中断したことと、1978年末にOPECが「翌1979年より原油価格を4段階に分けて計14.5%値上げする」ことを決定したことにより、原油価格上昇(第2次石油危機)

1979年4月1日 イラン・イスラーム共和国成立。 

1979年11月4日 イランアメリカ大使館占拠事件勃発(〜1981年1月20日)。イラン元皇帝を受け入れたアメリカに抗議するデモ参加者がアメリカ大使館を占拠し、外交官・海兵隊員・その家族を人質に取って、元皇帝のイラン政府への身柄引き渡しを要求した。Carter大統領の下、アメリカ軍による人質救出作戦は成功せず、元皇帝の死(1980年7月27日)の後、交渉を経て、1981年1月20日Reagan大統領の就任まで人質は解放されなかった。

1979年12月24日【冷戦第三波TOP】ソ連アフガニスタンに侵攻。アメリカはパキスタンを経由して非軍事的物資と活動資金をムジャーヒディーンアラビア語で「ジハードを遂行する者」を意味するムジャーヒドの複数形。この場合は、共産主義政権とソビエト連邦軍に対する抵抗運動の兵士たち)に提供していたが、これら支援は秘密裏に進められており、ソ連との対立姿勢を明確にすることは避けられていた。ソ連の侵攻により明示的に米ソは対立することとなった。 しかし、イラン革命成功を背景とし、ソ連としてはアフガニスタンでもイスラム原理主義の革命が起こればソ連にも飛び火する危険性があった。

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冷戦第三波に関与したのは、Nixon、Ford、Carter、Reagan、G.H.Bushの5人の大統領だ。

  • Richard Milhous Nixon第37代大統領(1969年[US193]1月20日〜1974年[US198]8月9日)
  • Gerald Rudolph Ford第38代大統領(1974年[US198]8月9日〜1977年[US201]1月20日)
  • James Earl Carter Jr.第39代大統領(1977年[US201]1月20日〜1981年[US205]1月20日)
  • Ronald Wilson Reagan第40代大統領(1981年[US205]1月20日〜1989年[US213]1月20日)
  • George Hebert Bush第41代大統領(1989年[US213]1月20日〜1993年[US217]1月20日)

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冷戦第三波に関与したソ連の書記長は以下の通り。

  • Leonid Il'ich Brezhnev書記長(1964年[US]10月14日〜1982年[US]11月10日)
  • Yurii Vladimirovich Andropov書記長(1982年[US]11月12日〜1984年[US]2月9日)
  • Konstantin Ustinovich Chernenko書記長(1984年[US]2月13日〜1985年[US]3月10日)
  • Mikhail Sergeevich Gorbachev書記長(1985年[US]3月11日〜1991年[US]8月24日)

 

文責:鵄士縦七 

 

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