Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ロシアの地政学04:1788-1790第1次ロシア・スウェーデン戦争、ヴァララの和約

ひきつづきロシアの地政学を学ぶ。今回は第1次ロシア・スウェーデン戦争(ヴァララの和約)。最初に、クールにザックリまとめる。 

1788年[US012]第1次ロシア・スウェーデン戦争勃発。ロシアはスヴェンスクスンドの海戦で大敗するも明確な勝敗はつかず1790年[US014]ヴァララの和約を締結。両国共に領土の変更はなかったが、ロシアはスウェーデンに対する内政干渉権を正式に取り消した。

f:id:synme:20170902105435j:plain

1762年[bUS014]10月3日に戴冠したYekaterina II、トルコ(オスマン帝国)に勝利(1774年[bUS002])し、第一次武装中立同盟(ロシア、スウェーデンデンマークプロイセンポルトガル1780年[US004]〜1783年[US007])でイギリスを孤立させてアメリカの独立を助け、お次はスウェーデンと戦争である。

スウェーデンは、1788年[US012]6月、前年4月に勃発していた1787-1792ロシア・トルコ戦争(1787年[US011]4月〜1791年[US015]12月29日)を利用して、カレリアの返還とロシアの内政干渉停止などを目指して、ロシアの攻撃を自作自演して防衛戦争と偽ってロシアと開戦した。

これが第1次ロシア・スウェーデン戦争(1788年[US012]6月〜1790年[US014]8月)である。

スウェーデンは戦時同盟国を持たず、フランスは革命直前の混乱によりスウェーデンを支援できず、かつて大北方戦争で共闘したオスマン帝国も同盟を拒否した。イギリス、プロイセンなどは中立を表明した。

デンマークはロシアと同盟関係にあり、デンマークスウェーデンに対し宣戦布告した。しかし、スウェーデンは水面下での外交で、イギリスとプロイセンデンマークに圧力を加えさせ、戦線から離脱させた。

フィンランド湾で行われたスヴェンスクスンドの海戦(1790年[US014]7月)で、ロシアのバルチック艦隊スウェーデン海軍に大敗北を喫する等したが、フランス革命(1789年[US013]7月14日のバスティーユ襲撃)の勃発により両国の関係は急速に改善に向かった。

結局、イギリスとプロイセンの仲介により、1790年[US014]8月14日にヴァララの和約が締結された。ロシアとスウェーデンは、ロシアの内政干渉権取消し、領土変更なしで和平合意した。

更に、ロシアはスウェーデンと1791年[US015]10月19日に軍事同盟を締結した。この同盟により、外国に攻撃された場合の相互援助を約したが、仮想敵国はフランスであった。

 

文責:鵄士縦七

 

 

ロシアの地政学03:1780-1783第1次武装中立同盟

ロシアの地政学、次はWikipediaで第1次武装中立同盟を学ぶ。最初にクールにザックリまとめる。

イギリスの対米海上封鎖に対抗して、ロシアはスウェーデンデンマークプロイセンポルトガルと共に第1次武装中立同盟(1780年[US004]〜1783年[US007])を結成した。ロシアはアメリカの独立を間接的に助けた。

f:id:synme:20170902105214j:plain

1762年[bUS014]10月3日に戴冠したYekaterina II、トルコ(オスマン帝国)に勝利(1768年[bUS008]〜1774年[bUS002]7月21日、キュチュク・カイナルジ条約)した後は、イギリスとの対立である。

イギリスはアメリカと革命戦争(1775年[bUS001]4月19日〜1783年[US007]9月3日)中であった。第1次武装中立同盟の結果、 フランス・スペイン・オランダからも宣戦布告されていたイギリスは孤立。ロシアはアメリカの独立を助けたことになる。

第1次武装中立同盟について、武装中立同盟 - Wikipediaから下記の通り引用する。

武装中立同盟(League of Armed Neutrality)は、アメリカ独立戦争中の1780年から1783年にかけて、ロシア帝国エカチェリーナ2世主導で結成された、ヨーロッパ各国の同盟。

イギリスの対米海上封鎖(中立国船舶捕獲宣言)を行った事に対して、1778年に中立国のスウェーデンが中立国船舶の保護を訴えた。翌1779年、イギリスの政策に対抗してロシアの女帝エカチェリーナ2世が中立国船舶の航行の自由と禁制品以外の物資輸送の自由を宣言をした。この提唱による参加国は北欧を中心にロシア・スウェーデンデンマークプロイセンポルトガルの5か国。

植民地政策でのイギリスとの対立や、当時盛んになった啓蒙思想に共鳴したことが同盟参加の鍵となった。この同盟の結成により、アメリカ独立戦争は国際化し、フランス・スペイン・オランダからも宣戦布告されていたイギリスは孤立する結果となり、アメリカの独立を間接的に支援する結果となった。

また、アメリカ合衆国の独立に際し、ヨーロッパの中立国の中でスウェーデンは最初にアメリカを国家承認した国となった(ただしスウェーデン義勇兵は、両方の陣営に加わっていた)。

--- 

synme.hatenablog.com

 

文責:鵄士縦七

 

 

ロシアの地政学02:1768-1774ロシア・トルコ戦争、キュチュク・カイナルジ条約

ロシアの地政学高橋洋一氏の世界のニュースがわかる! 図解地政学入門に学ぶ。まずは1768-1774ロシア・トルコ戦争(キュチュク・カイナルジ条約)。最初に、クールにザックリまとめる。 

1768年[bUS008]ロシア・トルコ戦争勃発。ロシアが勝利し、1774年[bUS002]キュチュク・カイナルジ条約を調印。ロシアは、アゾフ海の支配権を確立した上、ボスポラス海峡ダーダネルス海峡の商船通行権を獲得した。

f:id:synme:20170902104950j:plain

1762年[bUS014]10月3日に戴冠したYekaterina II、まずはトルコ(オスマン帝国)に勝利した。

コリーイの乱の一部がオスマン帝国に侵入したことにより、1768年[bUS008]オスマン帝国が宣戦してロシア・トルコ戦争勃発。コリーイの乱とは、ポーランド・リトアニア共和国が支配した右岸ウクライナで起きたウクライナ人による武装蜂起である。ウクライナ人の蜂起軍はハイダマーカと呼ばれる。

ロシアが勝利し、1774年[bUS002]7月21日キュチュク・カイナルジ条約を調印。ロシアは、クリム・ハン国の保護権を獲得、ブグ川とドニエプル川のあいだの地域を割譲して、アゾフ海の支配権を確立した。加えて、ロシアはボスポラス海峡ダーダネルス海峡の商船通行権、黒海艦隊の建造権を得た。また、黒海カスピ海の間の一部地域も割譲した。

ボスポラス海峡ダーダネルス海峡は、黒海からマルマラ海、そしてエーゲ海、地中海へと至る海峡だ。黒海方面の南下起点としてのアゾフ海をがっちり確保した上で、地中海へ抜ける海峡を自由に航行できるようになったわけで、ロシアは大幅な勢力拡大に成功したと評価すべきである。

さらに、オスマン帝国は、帝国内に住む正教会信徒の保護権をロシアに与えた。ロシアは、これ以降トルコ(オスマン帝国支配下の諸民族の独立要求をバルカン半島進出(すなわちオスマン帝国に対する内政干渉)の口実として利用することになる。

---

オスマン帝国は、テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国。15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノポリスを征服、この都市を自らの首都(イスタンブール)とした。17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナハンガリーチェコスロバキアに至る広大な領域に及んだ。
アナトリア小アジア)の片隅に生まれた小君侯国から発展したイスラム王朝であるオスマン朝は、やがて東ローマ帝国などの東ヨーロッパキリスト教諸国、マムルーク朝などの西アジア北アフリカイスラム教諸国を征服して地中海世界の過半を覆い尽くす世界帝国たるオスマン帝国へと発展した。オスマン帝国は中央同盟国として第一次世界大戦に参戦し敗れた。1924年[US148]アナトリアトルコ共和国に取って代わられた。

 

文責:鵄士縦七

 

世界のニュースがわかる! 図解地政学入門

世界のニュースがわかる! 図解地政学入門

 

 

 

ロシアの地政学01

さて、高橋洋一氏の世界のニュースがわかる! 図解地政学入門は第2章でロシアの地政学を扱っている。高橋氏が挙げるロシアの主な戦争は以下の11個である(同書p.91-93)。[US歴]はSynmeが追記した。

  1. 1768年[bUS008] 第1次ロシア・トルコ戦争
  2. 1787年[US011] 第2次ロシア・トルコ戦争
  3. 1804年[US028] 第1次イラン・ロシア戦争
  4. 1812年[US036] モスクワ遠征(ナポレオン戦争
  5. 1826年[US050] 第2次イラン・ロシア戦争
  6. 1853年[US077] クリミア戦争
  7. 1856年[US080] アロー戦争
  8. 1877年[US101] 露土戦争
  9. 1904年[US128] 日露戦争
  10. 1914年[US138] 第一次世界大戦
  11. 1939年[US163] 第二次世界大戦 

f:id:synme:20170902104800j:plain

これを参考に、Synmeなりに呼称を変えたり戦争やイベントを追加したりして、下記の26個のイベントに注目してロシアの地政学を学ぶことにする。

なお、学習対象については、ひとまず1762年[bUS014]10月3日のYekaterina IIの戴冠以降とする。

  1. 1768年[bUS008]〜1774年[bUS002]7月21日 ロシア・トルコ戦争(1768-74、第1次)、キュチュク・カイナルジ条約
  2. 1788年[US012]6月〜1790年[US014]8月 第1次ロシア・スウェーデン戦争(フィンランド戦争)
  3. 1787年[US011]〜1792年[US016]1月9日 ロシア・トルコ戦争(1787-92、第2次)、ヤッシー条約
  4. 1795年[US019]10月24日 第3次ポーランド分割
    Cf.1772年[bUS004]8月5日 第1次ポーランド分割
    Cf.1793年[US017]1月23日 第2次ポーランド分割
  5. 1798年[US022]12月24日〜1801年[US025]2月9日 第二次対仏大同盟
    1800年[US024]〜1801年[US025] 第2次武装中立同盟
  6. 1805年[US029]4月11日〜1806年[US030]4月30日 第三次対仏大同盟
  7. 1806年[US030]10月6日〜1807年[US031]7月7日 第四次対仏大同盟
  8. 1808年[US032]2月〜1809年[US033]9月17日 第2次ロシア・スウェーデン戦争(フィンランド戦争)
  9. 1806年[US030]〜1812年[US036]5月28日 ロシア・トルコ戦争(1806-12、第3次)、ブカレスト条約
  10. 1807年[US031]9月〜1812年[US036]7月18日 英露戦争
  11. 1812年[US036]6月22日〜12月14日 1812年祖国戦争(第六次対仏大同盟
  12. 1804年[US028]〜1813年[US037]10月24日 第1次イラン・ロシア戦争、ゴレスターン条約
  13. 1815年[US039]6月9日 第4次ポーランド分割ウィーン会議(1814年[US038]9月1日〜1815年[US039]6月9日))
  14. 1826年[US050]〜1828年[US052]2月10日 第2次イラン・ロシア戦争、トルコマンチャーイ条約
  15. 1828年[US052]6月〜1829年[US053]9月14日 ロシア・トルコ戦争(1828-9、第4次)、アドリアノープル条約
  16. 1838年[US062]3月〜1842年[US066]10月 第1次アングロ・アフガン戦争
  17. 1853年[US077]3月28日〜1856年[US080]3月30日 クリミア戦争ロシア・トルコ戦争(1853-6))
  18. 1856年[US080]6月28日〜1860年[US084]10月/11月 アロー戦争
  19. 1877年[US101]4月24日〜1878年[US102]3月3日 ロシア・トルコ戦争(1877-8)、サン・ステファノ条約で講和後、ベルリン条約で変更。
  20. 1878年[US102]11月21日〜1881年[US105] 第2次アングロ・アフガン戦争
  21. 1904年[US128]2月8日〜1905年[US129]9月5日 日露戦争
  22. 1914年[US138]7月28日〜1918年[US142]11月11日 第一次世界大戦
  23. 1919年[US143]5月6日〜8月8日 第3次アングロ・アフガン戦争、ラーワルピンディー条約
  24. 1939年[US163]9月1日〜1945年[US169]9月2日 第二次世界大戦
    1941年[US161]6月22日〜1945年[US169]5月9日 大祖国戦争
  25. 1979年[US203]12月24日〜1989年[US213]2月15日 アフガニスタン紛争
  26. 1991年[US215]12月25日 ソ連崩壊

もう戦争ばっかりである。ロシアが戦争及び戦時の外交に強いはずだ、戦歴・経験値が違う...とSynmeは感じる。

---

Yekaterina II Alekseyevna(在位1762年7月9日〜1796年11月17日)は、南下政策を活性化してトルコとの2度の戦争に勝利し、プロイセン及びオーストリアと共にポーランド分割を3度実施。ロシア帝国の領土をポーランドウクライナに拡大した。

 

文責:鵄士縦七

 

世界のニュースがわかる! 図解地政学入門

世界のニュースがわかる! 図解地政学入門

 

フランスの地政学10

前々回まで8回に渡ってNapoléonの戦争を学んできた。フランスの視点で、ナポレオン戦争をクールにザックリまとめると以下の通り。

1803年[US027]イギリスに宣戦布告されてナポレオン戦争が勃発。フランス第一帝政がイギリス侵攻計画を立てると1805年[US029]イギリスは第三次対仏大同盟を結成した。トラファルガーの海戦でフランス・スペイン連合艦隊がイギリス艦隊に敗北するも、ウルム戦役でオーストリア軍に勝利し、アウステルリッツの戦いでロシア・オーストリア連合軍に勝利。プレスブルクの和約により、オーストリアイストリアダルマチアを割譲、イタリア王国を承認して同国にヴェネツィアを割譲した。フランス軍は1806年[US030]にはナポリ王国を征服した。

1806年[US030]ライン同盟が成立すると、プロイセンは第四次対仏大同盟を成立させた。フランスはイエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセンに勝利してベルリンを制圧、1807年[US031]アイラウの戦いでロシアを撤退させて辛勝、フリートラントの戦いでロシアに大勝、臨時首都ケーニヒスベルクを占領した。フランスはティルジットの和約でロシア、プロイセンとそれぞれ講和。エルベ川以西にはヴェストファーレン王国が置かれ、ポーランドワルシャワ公国として復活し、いずれもフランスの衛星国となった。

1807年[US031]フランス第一帝政ポルトガルの攻略を開始。リスボンを攻略するが、ポルトガル女王は出航・逃亡。Napoléonがスペインの直接支配を目論むと、1808年[US032]スペイン独立戦争が勃発・泥沼化。1809年[US033]オーストリアはイギリスと第五次対仏大同盟を結んで侵攻を開始した。Napoléonはヴァグラムの戦いでオーストリアに勝利し、シェーンブルンの和約でトリエステダルマチアを割譲、8,500万フランの賠償金を課した。1811年[US035]教皇領を併合し、Napoléonは絶頂期を迎えた

1812年[US036]Napoléonはロシアに遠征するも撃退された。ロシア、イギリス、プロイセンは第六次対仏大同盟を結成した。Napoléonはリュッツェンの戦いやバウツェンの戦いでロシア・プロイセン連合軍に勝利してオーストリアの仲介で休戦するが講和会議は決裂。フランス第一帝政は、ロシア、イギリス、プロイセンオーストリアスウェーデンと戦うことになった。Napoléonはライプツィヒの戦いに敗北してフランスへ撤退。東からの攻勢に加え、南からもイギリス・ポルトガル・スペイン連合軍がフランスに侵攻、パリは陥落した。フォンテーヌブロー条約によりNapoléonは退位しエルバ島に追放。フランス王政が復古した。

ウィーン会議(1814年[US038]〜1815年[US039])は遅々として進まなかったが、Napoléonのエルバ島脱出と復位の報に接して妥協が成立した。

Napoléonはエルバ島を脱出し再び帝位に就いた。一方、オーストリア、ロシア、イギリス、プロイセンは第七次対仏大同盟を結成。スウェーデンネーデルランド、ライン同盟も参加した。Napoléonはリニーの戦いでプロイセン軍を破ったが壊滅には至れなかった。Napoléonはワーテルローの戦いでイギリス・オランダ連合軍に敗北した。6月22日Napoléonは再び退位、セントヘレナ島へ流罪となった。11月20日第二次パリ条約の締結をもって、フランスはナポレオン戦争に敗北した。 

f:id:synme:20170902104649j:plain 

良くも悪くもNapoléonの天才的な軍略によりフランス第一帝政は勝ち続けるわけだが、英葡永久同盟に支えられたポルトガルがNapoléonの躓きの元になった。

ポルトガルリスボン攻略には成功するものの、ポルトガル女王には逃げられてしまったNapoléonは第二次対仏大同盟以来の同盟国スペインの直接支配を目論んだ。これがスペイン民衆の反感を買ってスペイン独立戦争となり、泥沼化。ポルトガル、スペインと失敗が続いたことで、無理にロシア遠征を目論んだNapoléonの判断が直接的にパリ陥落にまで至る転落を招いてしまったのかもしれないとSynmeは思う。

言い方を変えれば、オーストリアに背を向けたことがNapoléonの最大の失敗だったと考えることもできると思う。実際、ロシア遠征を(当時スペイン独立戦争に張り付けていた)フランス精鋭部隊とともに行っていたら結果が違ったかもしれない。

 

Synmeが過去8回に掲載したフランスの地政学のうち、ナポレオン戦争の"クールにザックリ"部分も再掲しておく。

Synmeの能力不足で学習に長く掛かってしまったフランス革命戦争およびナポレオン戦争、至らないところは多いと思うが以上でとりあえずいったん終了です。

---

【1805-1806第三次対仏大同盟】1803年[US027]イギリスはアミアンの和約を破棄してフランスへ宣戦布告。ナポレオン戦争が勃発した。フランス第一帝政のイギリス侵攻計画に対抗して、1805年[US029]イギリスは第三次対仏大同盟を結成。フランスは、イギリス、オーストリア、ロシア、ナポリスウェーデンの5ヶ国連合軍と戦うこととなった。トラファルガーの海戦においてフランス・スペイン連合艦隊がイギリス艦隊に敗北するも、Napoléonはウルム戦役でオーストリア軍に勝利し、アウステルリッツの戦いでロシア・オーストリア連合軍に勝利。プレスブルクの和約により、オーストリアはフランスにイストリアとダルマチアを割譲、イタリア王国を承認して同国にヴェネツィアを割譲した。1806年[US030]にフランス軍ナポリ王国を征服。第三次対仏大同盟はイギリス、ロシア、スウェーデンの3ヶ国のみになってしまった。

【1806-1807第四次対仏大同盟】1806年[US030]ライン同盟が成立すると、プロイセンは第四次対仏大同盟を成立させた。フランスは、プロイセン、ロシア、イギリス、スウェーデンの4ヶ国連合軍と戦うこととなった。フランスはイエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセンに勝利してベルリンを制圧、プロイセン王は東プロイセンへ逃れた。フランスもポーランドに進軍、1807年[US031]アイラウの戦いでフランスはロシアを撤退させて辛勝、フリートラントの戦いでロシアに大勝、臨時首都ケーニヒスベルクを占領した。フランスとロシア、プロイセンは、それぞれティルジットの和約で講和。プロイセンは完全に敗北していたので、フランスとロシアの講和をもって第4次対仏大同盟は崩壊した。エルベ川以西にはヴェストファーレン王国が置かれ、ポーランドワルシャワ公国として復活し、いずれもフランスの衛星国となった。一方、この条約によりフランスとロシアとの間には協調関係が成立した。

【1809第五次対仏大同盟】1807年[US031]フランス第一帝政は大陸封鎖令に参加しない唯一の大陸国ポルトガルの攻略を開始した。リスボンを攻略するが、ポルトガル女王は出航・逃亡。ポルトガルの植民地獲得に失敗する。Napoléonがスペインの直接支配を目論むと、民衆の反発は1808年[US032]スペイン独立戦争に発展し、フランス第一帝政は陸戦で初の敗北を喫する等して泥沼化。Napoléonがスペインで苦戦する機に1809年[US033]オーストリアはイギリスと第五次対仏大同盟を結んで侵攻を開始した。Napoléonは直接指揮下の初敗北がありながらもヴァグラムの戦いでオーストリアに勝利した。シェーンブルンの和約でオーストラリアはフランスにトリエステダルマチアを割譲、8,500万フランの賠償金を課せられた。 1811年[US035]教皇領はフランスに併合され、Napoléonは絶頂期を迎えた。

【1812-1814第六次対仏大同盟】1812年[US036]Napoléonはイギリスとの貿易を再開したロシアに遠征するも焦土作戦により撃退される。一方、ロシアはイギリスとエレブルー条約を締結して和解しており、これに1813年[US037]プロイセンが参加。第六次対仏大同盟に発展して行く。Napoléonもリュッツェンの戦いやバウツェンの戦いでロシア・プロイセン連合軍に勝利しオーストリアの仲介で休戦協定が結ばれたが、講和会議は決裂。オーストリアスウェーデンもフランスに宣戦布告する。ロシア・オーストリアプロイセンスウェーデン連合軍はグロスベーレンの戦い、デネヴィッツの戦い、カッツバッハの戦い等に勝利。Napoléonはドレスデンの戦いに勝利するも追撃に失敗して戦力を失う。Napoléonはライプツィヒの戦いに敗北してフランスへの撤退する。東からの攻勢に加え、南からもイギリス・ポルトガル・スペイン連合軍がフランスに侵攻、パリは陥落した。フォンテーヌブロー条約によりNapoléonは退位しエルバ島に追放。フランス王政が復古した。

【1814-1815ウィーン会議ウィーン会議(1814年[US038]〜1815年[US039])は遅々として進まなかったが、Napoléonのエルバ島脱出と復位の報に接して妥協が成立した。オーストリアはドイツ連邦の盟主となりロンバルド=ヴェネト王国の国王となった。ロシアは、フィンランド大公国とポーランド立憲王国を承認させ、オスマン帝国からベッサラビアを獲得。プロイセンはラインラントを含め東西に領土を拡大。イギリスは、フランスからマルタ島を、オランダからセイロン島とケープ植民地を獲得、何より制海権を確立させた。スウェーデンデンマークからノルウェーを獲得してスウェーデンノルウェー連合王国となった。フランス復古王政セネガルを植民地として承認された。その他、ネーデルラント王国が成立、サルデーニャ王国が領土拡大、ナポリ王国復古、スペイン王国復古、スイス連邦永世中立国として承認された。

【1815第七次対仏大同盟】1815年[US039]2月26日Napoléonはエルバ島を脱出し3月20日パリ入城、再び帝位に就いて軍の動員に取り掛かった。一方、オーストリア、ロシア、イギリス、プロイセンは3月25日に第七次対仏大同盟を結成。スウェーデンネーデルランド、ライン同盟も参加した。Napoléonはリニーの戦いでプロイセン軍を破ったが壊滅には至れなかった。Napoléonはワーテルローの戦いでイギリス・オランダ連合軍と激突したが、フランス軍別働隊のの追撃を振り払ったプロイセン軍が戦場へ到着してフランス軍は敗北した。6月22日Napoléonは再び退位、セントヘレナ島へ流罪となった。11月20日第二次パリ条約の締結をもって、ナポレオン戦争は正式に終結した。フランスは7億フランの賠償金の支払いと同盟軍のフランス駐留と駐留経費負担も認めさせられた。

 

文責:鵄士縦七

フランスの地政学09

前回まで8日に渡ってNapoléonの戦争を学んできた。フランスの視点で、フランス革命戦争をクールにザックリまとめると以下の通り。

1792年[US016]フランス革命政府がオーストリアに宣戦してフランス革命戦争勃発。徴兵制を布いたフランスは攻勢に転じ、1795年[US019]バーゼルの和約によりプロイセンと講和してラインラントを併合。第二次バーゼルの和約によりスペインと講和してサントドミンゴを割譲。1797年[US021]カンポ・フォルミオの和約によりオーストリアと講和してネーデルラントロンバルディア、地中海のコルフ島アドリア海の島々を割譲した。 

オーストリアがラシュタット会議を引き延ばす中、Napoléonがエジプト遠征に失敗。フランスは再び戦わねばならなかった。1799年[US023]第一統領となったNapoléonはマレンゴの戦いとホーエンリンデンの戦いでオーストリアを撃破。 1801年[US025]リュネヴィルの和約により、バタヴィア共和国ヘルヴェティア共和国チザルピーナ共和国リグリア共和国を承認させ、ラインラント併合も承認させた。1802年[US026]アミアンの和約を締結してイギリスとも講和。フランス革命戦争はフランスの勝利に終わった。

f:id:synme:20170902095819j:plain

フランス第一共和政は国民の力で周辺各国の干渉を撃退することに成功した。しかし、講和会議をオーストリアが意図的に引き延ばす間に、Napoléonがエジプト遠征に失敗したことで戦争を継続することになり、共和政を諦めて帝政を選ぶこととなった。

イギリスとの戦争状態が続いていたとは言え、不用意なエジプト遠征をせず、共和政のままでフランス革命戦争終結させていたら、ナポレオン戦争は起こらなかったのだろうか?とSynmeは想像してしまう。WashingtonとNapoléon、2人の英雄の差異が革命を成功させた両国の歴史の違いに帰結しているのだろうか?

 

Synmeが過去8回に掲載したフランスの地政学のうち、フランス革命戦争の"クールにザックリ"部分も再掲しておく。

---

【1793-1797第一次対仏大同盟】1792年[US016]フランス革命政府がオーストリアに宣戦してフランス革命戦争勃発。1793年[US017]フランス第一共和政の打倒を目指す第一次対仏同盟が結成され、フランスは、イギリス、スペイン、オーストリア、南ネーデルラントプロイセンサルディーニャナポリの7ヶ国連合軍と戦うこととなった。徴兵制を布いたフランスは攻勢に転じ、1795年[US019]バーゼルの和約によりプロイセンと講和し、ラインラントを併合。同年第二次バーゼルの和約によりスペインと講和し、サントドミンゴを割譲。1797年[US021]カンポ・フォルミオの和約によりオーストリアと講和し、南ネーデルラントロンバルディア、地中海のコルフ島、アドリア海の島々を割譲。第一次対仏大同盟は崩壊し、交戦国はイギリスだけとなった。 

【1798-1801第二次対仏大同盟】オーストリアがラシュタット会議を引き延ばす中、Napoléonがエジプト遠征に失敗。Napoléonの不在を好機と見たオーストリア1798年[US022]第二次対仏同盟を結成し、再度参戦した。フランスは、イギリス、オーストリア、ロシア、トルコの4ヶ国連合軍と戦うこととなった。オーストリアは一時イタリアを奪還したが、1799年[US023]クーデターにより第一統領となったNapoléonにマレンゴの戦い(1800年[US024])で敗北、ホーエンリンデンの戦い(同年)でドイツ方面でも敗北。 1801年[US025]リュネヴィルの和約により、オーストリアバタヴィア共和国ヘルヴェティア共和国チザルピーナ共和国、リグリア共和国の承認を再確認し、フランスによるラインラントの併合を承認した。再びイギリスのみが交戦を続けることとなったが、1802年[US026]アミアンの和約を締結してフランスと講和。フランス革命戦争はフランスの勝利に終わった。

 

文責:鵄士縦七

 

フランスの地政学08:1815第七次対仏大同盟

今回はフランスの地政学としての第七次対仏大同盟を学ぶ。今回でナポレオン戦争終結する。最初にクールにザックリまとめる。

1815年[US039]2月26日Napoléonはエルバ島を脱出し3月20日パリ入城、再び帝位に就いて軍の動員に取り掛かった。一方、オーストリア、ロシア、イギリス、プロイセンは3月25日に第七次対仏大同盟を結成。スウェーデンネーデルランド、ライン同盟も参加した。Napoléonはリニーの戦いプロイセン軍を破ったが壊滅には至れなかった。Napoléonはワーテルローの戦いでイギリス・オランダ連合軍と激突したが、フランス軍別働隊の追撃を振り払ったプロイセン軍が戦場へ到着してフランス軍は敗北した。6月22日Napoléonは再び退位セントヘレナ島へ流罪となった。11月20日第二次パリ条約の締結をもって、ナポレオン戦争は正式に終結した。フランスは7億フランの賠償金の支払いと同盟軍のフランス駐留と駐留経費負担も認めさせられた。

f:id:synme:20170901222555j:plain

フォンテーヌブロー条約にも関わらず、しばらくしても年金や皇后との合流は果たされず、ウィーン会議において同盟国側は約束を反故にしたことが明らかになった。Napoléonは同条約は破棄されたものとして1815年[US039]2月26日エルバ島を脱出し3月1日カンヌ近郊に上陸した。

フランス王となっていたルイ18世はミシェル・ネイに軍を与えて捕縛に派遣したが、ネイはナポレオン側へ寝返り合流してパリへ進撃した。Napoléonは3月20日にパリに入城、再び帝位に就き、直ちに軍の動員に取り掛かった。

一方、オーストリア、ロシア、イギリス、プロイセンは3月13日にウィーン会議でナポレオン復帰の無効を決定し、3月25日に第七次対仏大同盟を結成した。スウェーデンネーデルランド、ライン同盟も参加した。  

当時、イギリス・オランダ連合軍とプロイセン軍はベルギー方面にあり、オーストリア軍はライン方面と北イタリアに展開していた。Napoléonは同盟軍が合流する前に各個撃破すべく、フランス軍主力を率いてベルギーへ向かった。

6月15日フランス軍はリニーの戦いでプロイセン軍を破った。しかし側面を衝く予定であったネイ軍団が6月16日のカトル・ブラの戦いでイギリス軍によって足止めされたため、プロイセン軍の撃滅には失敗した。Napoléonはグルーシーに一軍を与えてプロイセン軍の追撃に派遣し、自身はイギリス・オランダ連合軍と決戦するためにワーテルローへ向かった。

6月18日フランス軍7万2,000とイギリス・オランダ連合軍6万8,000がワーテルローの戦いで激突した。フランス軍がやや優勢な状況だったが、グルーシーの追撃を振り払ったプロイセン軍が戦場へ到着してフランス軍の側面へ猛攻をかけフランス軍は潰走。プロイセン軍の追撃によってフランス軍は完全に崩壊した。

6月22日Napoléonは再び退位を余儀なくされ、セントヘレナ島へ流罪となった。7月8日ルイ18世がフランス国王に復位した。

11月20日第二次パリ条約の締結をもって、ナポレオン戦争は正式に終結した。1814年[US038]5月30日の第一次パリ条約で第六次対仏大同盟諸国とフランスとが講和した後、百日天下でフランス国民がナポレオンに対して広範な支持を与えたことで、第二次パリ条約で第七次対仏大同盟諸国が提示した講和条件はより厳しいものとなった。

第一次パリ条約とは異なり、第二次パリ条約の締結国はイギリス、オーストリア、ロシア、プロイセンの4国で、フランスは締結国ではなかった。また、第一次パリ条約で認められたフランスの領土は「1792年当時の領土」であったが、第二次パリ条約ではこれが「1790年当時の領土」へと縮小された。さらに、フランスは7億フランの賠償金の支払いを課せられ、最長5年間の同盟軍のフランス駐留と駐留経費の負担も認めさせられた。

パリ条約の締結と同じ日、オーストリア、ロシア、プロイセンによって神聖同盟が締結された。

 

文責:鵄士縦七