Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

地政学を学ぶフレームワーク10

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、相次いで大陸横断鉄道と運河が建設された。 

Synmeは現状、「ロシアの地政学」に並行して「フランスの地政学」や「イギリスの地政学」などを学んでいるが「鉄道と運河の地政学」も加えておきたい。

Synmeがロシアの経済学として日露戦争(1904年[US128]2月8日〜1905年[US129]9月5日) を学ぶのも間もなくなのだけれど、下調べしているうちにシベリア鉄道スエズ運河について学ぶ必要を感じたのがきっかけである。

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具体的には、以下の6つを学んでおこうと考えている。

  1. アメリカ大陸横断鉄道の建設・開通(1863年1月8日〜1869年5月10日開通)
  2. スエズ運河の建設・開通(1859年4月25日〜1869年11月17日開通)
  3. スエズ運河会社株式の売却(1875年)
  4. パナマ運河会社の倒産(1880年1月1日〜1889年)
  5. シベリア鉄道の建設・開通(1891年〜1904年9月)
  6. パナマ運河の建設・開通(1903年〜1914年8月15日)

 

文責:鵄士縦七

ロシアの地政学31:1881イリ条約

今回はロシアの地政学としてイリ条約を学ぶ。タルバガタイ条約締結に続いて、トルキスタンにおけるロシアの領土拡大について学ぶことになる。最初に、クールにザックリまとめる。

1881年[US105]ロシアは清とイリ条約を締結し、イリ地方西部(ザイサン湖周辺)を獲得。 現在のカザフスタン及びキルギスとチャイナの国境までの領土拡大に成功した。 

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1862年[US086]以降、東トルキスタンにおけるイスラム教徒の清に対する反乱が続発した。

なかでもヤクブ・ベクはイギリスの支援も受け東トルキスタンの統一に成功した。1868年[US092]にはイギリスがヤクブ・ベク政権を承認し、1870年[US094]にはロシアも同政権を承認した。

一方で、この反乱に乗じてロシアは1871年[US095]にイリ地方を占領した。このロシアの侵攻に対して清軍も反攻し、1877-1878ロシア・トルコ戦争(1877年[US101]4月24日〜1878年[US102]3月3日)によって譲歩せざるを得なかったロシアはイリ条約(1881年[US105]2月24日)を締結し、イリ地方東部(現在のイリ・カザフ自治区)を清に返還した。

 ヤクブ・ベク政権は1877年[US104]までに清に再征服されてしまった。

 

文責:鵄士縦七

 

ロシアの地政学30:1864タルバガタイ条約

今回はロシアの地政学としてタルバガタイ条約を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。

1864年[US088]ロシアは清とタルバガタイ条約を締結し、アルタイ山脈・ザイサン湖北辺・天山山脈パミール高原を結ぶラインを国境とすることに成功した。

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北京条約(1860年[US084]11月14日)の取り決めに従って、ロシアは清とタルバガタイ条約(Treaty of Tarbagatai (Treaty of Chuguchak)、1864年[US088]10月7日)を締結することに成功した。

ロシアはトルキスタンにおいても大幅に東方に領土を拡大することに成功し、ザイサン湖周辺を除いて現在のカザフスタン及びキルギスとチャイナの国境までの領土を獲得した。

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synme.hatenablog.com

1860年[US084]ロシアは清と北京条約を締結して沿海州を獲得。ロシアは沿海州南部にウラジオストクを建設し、遂に不凍港を手に入れた。 

 

文責:鵄士縦七

【再掲】アメリカの地政学06:1950-1953朝鮮戦争

2018年[US242]6月12日、シンガポールにおいて、Donald TrumpとJong-un Kim(金正恩)との初の米朝首脳会談が成功裏に開催されました。

Donald Trumpによる会談後の記者会見で在韓米軍は減らさないと言う言及があったようですが、今後も色々気になります。「朝鮮戦争って終わってなかったの?」と思いながらニュースを観ている方には、下記のSynme過去記事が少しお役に立つかも。

synme.hatenablog.com

1950年[US174]朝鮮戦争勃発。当初は、北朝鮮が韓国に侵攻した戦争だった。しかし、韓国軍の北緯38度線独断先行突破を機に戦争は長期化し、アメリカとチャイナの代理戦争となった。シーソーゲームと化した戦争は1953年[US177]に結局元通りの北緯38度線で休戦。定義上は現在も終結していない。 

 

 

 

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以下、記事本文も貼付けます。

 

 

 

さて、高橋洋一氏の世界のニュースがわかる! 図解地政学入門に戻って朝鮮戦争を学ぶ。最初に、朝鮮戦争をクールにザックリまとめる。

1950年[US174]朝鮮戦争勃発。当初は、北朝鮮が韓国に侵攻した戦争だった。しかし、韓国軍の北緯38度線独断先行突破を機に戦争は長期化し、アメリカとチャイナの代理戦争となった。シーソーゲームと化した戦争は1953年[US177]に結局元通りの北緯38度線で休戦。定義上は現在も終結していない。

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戦争の経過を高橋氏は以下の年表にまとめている。【括弧】内はSynmeが追記。

  • 1950年6月25日 北朝鮮軍、38度線を超えて南進開始。朝鮮戦争勃発
  • 1950年9月15日〜30日 国連軍、仁川上陸作戦
  • 1950年10月1日 韓国軍、国連軍、38度線を超えて北進【これを機に長期化】
  • 1950年10月18日 中国人民解放軍が参戦
  • 1951年1月15日 国連軍、37度線まで後退
  • 1951年1月25日〜6月15日 再び北進する国連軍と中朝軍が38度線〜37度線の間で激突
  • 1951年7月10日 戦闘が続くなか休戦会談開始
  • 1953年7月27日 休戦協定調印

シーソーゲームという以外に表現のしようがないが、38度線の回復だけが念頭にあり、朝鮮半島統一を目標としていなかったアメリカにとっては、1950年9月30日で休戦したかったというのが本音のところではないかとSynmeは思う。

アメリカとしては第二次世界大戦後の対共産主義の戦いが始まったばかりの中で負けられない戦いに巻き込まれただけで得るものは特になかった。とにかく、休戦によってアジアにおいて朝鮮半島南部まで到達した自国の影響力を維持できたこと、翌1951年[US175]の日米安全保障条約の締結によって日本をアジアにおける同盟国に引き上げる契機となったことなどがアメリカにとっての朝鮮戦争の意義であろうか。

北朝鮮のKim Il-sung首相がソ連のJoseph StalinとチャイナのMao Zedongの承認を取り付けた上で韓国に侵攻したこと、韓国のSyngman Rhee大統領がソウル回復後に独断専行で韓国軍に38度線を突破させたことにより国連軍(アメリカ軍主体)も北進せざるを得なくなったこと等を見ると、冷戦の枠組みと言うよりは朝鮮半島の政争にアメリカとチャイナが巻き込まれた戦争であったようにもSynmeには思える。

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高橋洋一氏の世界のニュースがわかる! 図解地政学入門に加えて、石平氏朝鮮半島はなぜいつも地獄が繰り返されるのか 中国人ですら韓民族に関わりたくない本当の理由で補足しながら朝鮮戦争の背景をもう少し学ぶ。

朝鮮総督府は、日本のポツダム宣言受諾を知っていたため、1945年[US169]8月15日に左翼民族主義者のYo Un-hyungに治安維持と日本人の生命財産を保障するよう協力を求めた。Yo Un-hyungは政治犯の釈放や独立運動への不干渉などを条件に受諾し、同日中に朝鮮建国準備委員会を結成した。同委員会は同年9月6日に全国人民代表者大会を開催し、朝鮮人民共和国の樹立を宣言している。

一方、アメリカとソ連は日本の降伏以前に協議し、38度線を軍事境界線とすることを取り決めていた。まず、同年8月16日にソ連軍が満州から朝鮮半島に侵攻。平壌に進軍して司令部を置いた。次いで、9月8日にアメリカ軍が仁川から上陸。京城に進駐して軍政庁を置いた。

また、同年12月16日にはアメリカ、ソ連、イギリスによる3国外相会議が開かれ、朝鮮民族自身の臨時政府の設置、米ソによる共同委員会の設置、5年間の信託統治下で、臨時政府と共同委員会との協議によって朝鮮の独立と統一を実現させていくことが発表された(モスクワ協定)。ところが、モスクワ協定を巡って激しい朝鮮民族内で政治闘争が展開。米ソは翌1946年[US170]3月20日から第1次米ソ共同委員会 を開催するも5月8日に無期限休会状態に陥る。1947年[US171]5月21日から第2次米ソ共同委員会を開催するも8月12日に完全決裂。

結局、南だけの単独国政選挙が実施され、Syngman Rheeが初代大統領に選出された後、1948年[US172]8月15日に大韓民国が成立した。国政選挙に反対していた北は、同年9月9日に朝鮮民主主義人民共和国の建国を宣言。Kim Il-sungは初代首相となった。韓国と北朝鮮はその成立当初から、自分の政府を朝鮮半島における「唯一の合法政権」と宣言し、お互いの政権を完全否定している。

 

文責:鵄士縦七 

 

世界のニュースがわかる! 図解地政学入門

世界のニュースがわかる! 図解地政学入門

 

フランスの地政学15:1861-1867メキシコ出兵

ひきつづきNapoléon IIIに関連するフランスの地政学を学ぶ。今回は一転メキシコに対する干渉戦争、メキシコ出兵である。最初にクールにザックリまとめる。

1861年[US085]Napoléon IIIはメキシコに出兵し傀儡のメキシコ第二帝国を成立させたが、1866年[US090]アメリ南北戦争終結するとフランス軍を撤退させた。傀儡のメキシコ皇帝は処刑されてしまい、Napoléon IIIの権威は失墜した

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1858年[US082]1月15日メキシコ合衆国においてBenito Pablo Juárez García大統領(〜1872年[US096]7月18日)が初めて先住民族から大統領に選出された。

Benito Juárez大統領が債務の利息支払を停止したのに対して、1861年[US085]12月8日〜17日にかけて、フランス第二帝政、イギリス、スペインが艦隊を派遣。利息を支払わせるべく圧力をかけた。

イギリスとスペインは翌1862年[US083]4月29日までに撤退したが、Napoléon III(Charles Louis-Napoléon Bonaparte)はメキシコにアメリカを牽制するカトリック帝国の建設を狙っていたため、メキシコ合衆国軍に対する戦争を継続した。

アメリカ合衆国南北戦争中(1861年[US085]4月12日〜1865年[US089]5月9日)であり、他国に介入できない状況だったため、フランス第二帝政は首都メキシコシティを攻略(1863年[US087]5月31日)し、傀儡政権としてメキシコ皇帝を即位させる(1864年[US088]4月10日、マキシミリアン、メキシコ第二帝国)などしていた。

しかし、アメリカ合衆国は、南北戦争終結すると、1866年[US090]2月12日にはメキシコ第二帝国を承認しないことを議会で決議し、メキシコ国境にアメリカ軍を派遣。Benito Juárez大統領に武器の供与なども行った。

1866年[US090]5月31日、アメリカ合衆国との対立を望まないNapoléon IIIはフランス軍の撤退を開始し、メキシコ皇帝は翌1867年[US091]5月15日にはBenito Juárez大統領側に拘束され、6月19日には処刑される結果となってしまった。

このメキシコ出兵1861年[US085]12月8日〜1867年[US091]6月21日) により、Napoléon IIIの権威は失墜した。

 

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1846年[US070]米墨戦争勃発。アメリカはメキシコに勝利し、1848年[US072]に調印されたグアダルーペ・イダルゴ条約で、1,825万ドルを対価にカリフォルニア、ネバダ、ユタ、アリゾナ等を獲得して太平洋岸まで領土を拡げた。

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1853年[US077]アメリカはメキシコから1,000万ドルでアリゾナ州南部およびニューメキシコ州南西部の地域を購入(ガズデン購入)した。アメリカ本土の領土拡大が完了した。 

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1861年[US085]南北戦争勃発(〜1865年[US089])。4年を超える内戦で約50万人の戦死者を出しながらもアメリカ合衆国(USA)がアメリカ連合国(CSA)に勝利して、国家の統一を保った。

 

文責:鵄士縦七

フランスの地政学14:1858-1862インドシナ出兵

フランスの地政学フランス第二帝政によるアジア植民地化の続きとしてインドシナ出兵を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。

1858年[US082]Napoléon IIIはスペインと共同して艦隊を派遣し阮朝(グェン朝、越南)に侵攻した。1862年[US086]阮朝に勝利しサイゴン条約を締結、フランス第二帝政は、コーチシナ東部3省(ビエンホア省、ジャーディン省、ディントゥアン省)及びロコンドール島ニコンソン島)を獲得した。

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Napoléon III(Charles Louis-Napoléon Bonaparte)は、アロー戦争(第2次アヘン戦争、1856年[US080]6月28日〜1860年[US084]10月/11月)と並行して、阮朝(グェン朝、越南、1802年[US026]〜1945年[US169]8月30日)にも侵攻した。今回のパートナー(共同出兵国)はスペイン、侵攻を主導したのはNapoléon IIIだった。

キリスト教を禁じることとなった阮朝(グェン朝、越南)がフランス人宣教師及びスペイン人宣教師を各2名処刑すると、Napoléon IIIはキリスト教布教の自由と通商の自由を口実として1858年[US082]8月31日にフランス第二帝政とスペインとの共同艦隊をダナンに派遣した。

ダナンでは 阮朝(グェン朝、越南)の抵抗にあって苦戦したが、翌1859年[US083]にはサイゴンに侵攻・占領。翌1860年[US084]にアロー戦争が終結すると兵力をインドシナ出兵に戦力を集中して、1862年[US086]6月5日に阮朝(グェン朝、越南)とサイゴン条約を締結することに成功した。

サイゴン条約(1862年[US086]6月5日)によって、阮朝(グェン朝、越南)はフランス第二帝政に対し、コーチシナ東部3省(ビエンホア省、ジャーディン省、ディントゥアン省)及びプロコンドール島(ニコンソン島)を割譲した。

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1856年[US080]Napoléon IIIはイギリスの共同出兵の要請に応じてアロー戦争に参戦。1858年[US082]清に勝利して天津条約を締結するが清が批准を拒否。1860年[US084]フランス・イギリス連合軍は北京を占領して北京条約を締結した。 

 

文責:鵄士縦七

 

 

 

ロシアの地政学29:1860北京条約/1856-1860アロー戦争(第2次アヘン戦争)

今回もロシアの観点からアロー戦争を学ぶ。アイグン条約の2年後、戦わずしてロシアは北京条約も締結する。最初にクールにザックリまとめる。 

1860年[US084]ロシアは清と北京条約を締結して沿海州を獲得。ロシアは沿海州南部にウラジオストクを建設し、遂に不凍港を手に入れた。

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アロー戦争(第2次アヘン戦争、1856年[US080]6月28日〜1860年[US084]10月/11月)の講和条約である北京条約だが、イギリス・フランス第二帝政と清が締結したのとは別に、ロシアも清と北京条約(1860年[US084]11月14日)を結ぶことに成功した。

ロシアはイギリス・フランス第二帝政と清の間の調停に入った(だけ)なのに、領土を獲得しただけでなく不凍港のオマケ付き。アイグン条約もそうだが、ロシアの清に対する外交は極めてスムーズに進んでいる。Synmeの勝手な想像だが、オスマン帝国を巡る外交と比較すると、欧州から遠く離れた極東においてはイギリス海軍、フランス陸軍の影響力が相対的に低く、国境を接し陸軍で圧力をかけることができるロシアの存在感が相対的に高いようだ。

さて、条約によってロシアは沿海州ウスリー川以東の外満州)を獲得した。この領土はアイグン条約で共同管理地とされていたものである。

ウラジオストク沿海州南部にロシアが建設した港湾都市だが、ウラジ『支配する』ヴォストーク『東』という名前が意味する通りロシアの極東植民地化の拠点として建設された。造船所とドックが建造され、ウラジオストク巡洋艦隊が置かれることになる。

もう1つ重要なことがある。北京条約によってトルキスタン(地図)の境界確定が合意された。この後タルバガタイ条約(1864年[US088])、イリ条約(1881年[US105])等で清は領土を割譲して行くことになるが、Synmeは別途学ぶ。加えて、イリ、タルバガタイ、カシュガルウランバートルにロシア領事館を設置することも承認された。

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synme.hatenablog.com

1856年[US080]イギリスはアロー号事件を口実にフランスと共同で開戦。1858年[US082]清に勝利して天津条約を締結するが清が批准を拒否。1860年[US084]イギリス・フランス連合軍は北京を占領して北京条約を締結。清は牛荘、登州、漢口、九江、鎮江、台南、淡水、汕頭、瓊州、南京、天津を開港させられた。イギリスは九竜半島南部を獲得した。

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ネルチンスク条約(1689年[bUS087])では、ロシアと清の国境をアルグン川・ゴルビツァ川とスタノヴォイ山脈の線に定めた。対等条約であり、ロシアは不凍港を得られなかった。

ネルチンスク条約とアイグン条約・北京条約との国境比較

アムール川と支流 

 

文責:鵄士縦七