Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

フランスの地政学05:1809第五次対仏大同盟

ひきつづきフランスの地政学としての第五次対仏大同盟を学ぶ。今回はフランス第一帝政が迎えた絶頂期とフランス第一帝政の終わりの始まりとしてのスペイン独立戦争半島戦争)の始まりを学習する。最初にクールにザックリまとめる。 

1807年[US031]フランス第一帝政は大陸封鎖令に参加しない唯一の大陸国ポルトガルの攻略を開始した。リスボンを攻略するが、ポルトガル女王は出航・逃亡。ポルトガルの植民地獲得に失敗する。Napoléonがスペインの直接支配を目論むと、民衆の反発は1808年[US032]スペイン独立戦争に発展し、フランス第一帝政は陸戦で初の敗北を喫する等して泥沼化。Napoléonがスペインで苦戦する機に1809年[US033]オーストリアはイギリスと第五次対仏大同盟を結んで侵攻を開始した。Napoléonは直接指揮下の初敗北がありながらもヴァグラムの戦いオーストリアに勝利した。シェーンブルンの和約でオーストラリアはフランスにトリエステダルマチアを割譲、8,500万フランの賠償金を課せられた。 1811年[US035]教皇領はフランスに併合され、Napoléonは絶頂期を迎えた

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これまで4回に渡って学んできた対仏大同盟、フランス第一共和政第一帝政の連戦連勝である、しかし、イギリスが海戦に勝ち続けており制海権を維持している。

イギリスへの対抗策として、1806年[US030]11月21日Napoléonは大陸封鎖令を出していた。欧州大陸諸国とイギリスとの貿易を禁止してイギリスを経済的な困窮させ、フランスの市場を広げようという目論みである。フランスに従属した諸国は大陸封鎖に参加を余儀なくされた。しかし、豊かな経済力をもつイギリスと通商ができなくなった大陸諸国の側にも経済的困窮を招いてしまっていた。

とはいえ、第4次対仏大同盟が崩壊した時点でプロイセン、ロシアが大陸封鎖令に参加し、その後ロシアに敗れたスウェーデンも参加することとなったため、Napoléonの対英戦略の根幹に位置づけられていた大陸封鎖令に参加しない大陸国ポルトガルのみとなっていた。

1807年[US031]11月フランス第一帝政ポルトガルの攻略を開始した。フランスは12月1日にはリスボンを攻略するが、ポルトガル女王は11月29日に出航・逃亡した後だった。ポルトガルはブラジルのリオデジャネイロに遷都し、ブラジル公国を本国と同格の王国とし1815年[US039]12月16日には正式に国名をポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国と改称した

ポルトガルの植民地獲得に失敗したNapoléonは、スペインの直接支配を目論み、スペイン・ブルボン朝の内紛に介入。1808年[US032]3月Napoléonの兄ジョゼフをホセ1世としてスペイン国王に即位させた。これにスペイン民衆が反発し5月2日マドリッドで蜂起、7月スペイン軍・ゲリラ連合軍の前にデュポン将軍率いるフランス軍が降伏した。これは、皇帝に即位して以来ヨーロッパ全土を支配下に入れてきたナポレオンの陸上での最初の敗北だった。8月イギリスが英葡永久同盟により参戦し、スペイン独立戦争半島戦争、1808年[US032]5月2日〜1814年[US038]4月10日)に発展した。

フランス第一帝政がスペインで苦戦しているのを見て、1809年[US033]4月9日オーストリアはイギリスと第五次対仏大同盟を結んで、バイエルンへの侵攻を開始した。

この第五次対仏大同盟(1809年[US033]4月9日〜10月14日)の参加国はオーストリアとイギリスの2ヶ国のみだった。 

1809年[US033]4月9日、カール大公率いる20万のオーストリア軍主力は、フランスの同盟国バイエルンへの侵攻を開始。同時にフェルディナント大公の軍団がワルシャワ公国へ、ヨハン大公の軍団がイタリアへ侵攻した。しかし、Napoléonはオーストリア軍の分散状況を見抜き、即座に反撃に転じた。Napoléonは4月20日にアベンスベルクでオーストリア軍の前衛を突破。21日にランツフートでオーストリア軍左翼を破り、22日のエックミュールの戦いでカール大公率いるオーストリア軍右翼を撃破した。カール大公はドナウ川の北岸に退却した。

同じ頃ポーランドでも、ワルシャワ公国軍が、ラシンの戦い(4月19日)でオーストリア軍に勝利した。Napoléon率いるフランス軍主力はドナウ川南岸を東進し、5月13日にオーストリアの首都ウィーンに無血入城した。カール大公もオーストリア軍をドナウ川の対岸に集結させ、決戦の構えとなった。
5月18日から20日にかけて、フランス軍ドナウ川の中洲のロバウ島を占領して仮橋をかけ、対岸のアスペルンからエスリンクの一帯に橋頭堡を築いた。だがオーストリア軍の破壊工作によって仮橋がしばしば流され、十分な兵力を渡河させることができなかった。5月21日-22日、オーストリア軍は半渡のフランス軍に対して攻撃をかけ勝利を収めた。このアスペルン・エスリンクの戦いはNapoléon自身の指揮による初めての敗北となった。

Napoléonはイタリア方面からのウジェーヌ軍団などの来着を待って、再び決戦を挑んだ。7月4日、暴風雨を衝いて夜間に前衛部隊がドナウ川を渡河し、5日夕刻までに一気に14万が渡河に成功した。7月5日から6日にかけて行われたヴァグラムの戦いで、フランス軍は多大な損害を出しながらもオーストリア軍に対して勝利を収めた。

10月14日シェーンブルンの和約でオーストリアはフランスと講和。オーストラリアはフランスにはトリエステダルマチアを、バイエルン王国にはザルツブルクとチロルを、ワルシャワ公国には北部ガリツィアとルブリンを割譲した。ロシア帝国に対しては、オーストリアと戦わなかったにもかかわらず、東部ガリツィアを割譲した。そのうえ、8,500万フランの賠償金を課せられた。 

1811年[US035]3月20日に王子ナポレオン2世が誕生し、ローマ王となった。この過程で教皇領はフランスに併合され、ローマ教皇ピウス7世は幽閉された。

このころナポレオンの覇権はオランダ、ハンブルク、ローマなどを併合したフランス帝国の他、支配下イタリア王国、兄ジョゼフが王位にあるスペイン、弟ジェロームが王位にあるヴェストファーレン王国、義弟のミュラが王位にあるナポリ王国、従属的な同盟国のスイス、ライン同盟、ワルシャワ公国、そして対等同盟国のデンマーク王国に及び、ナポレオンの絶頂期と評される。

ナポレオン戦争 - Wikipedia

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ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国の領土はこちらを参照。海外に遷都とはニッポン人のSynmeの発想を超えている。知らなかったし、驚いた。

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英葡永久同盟(Anglo-Portuguese Alliance)は、イングランド(イギリス)とポルトガルの間で1373年[bUS403]に結ばれ、現在まで続く世界最古の同盟。

 

文責:鵄士縦七