Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

フランスの地政学08:1815第七次対仏大同盟

今回はフランスの地政学としての第七次対仏大同盟を学ぶ。今回でナポレオン戦争終結する。最初にクールにザックリまとめる。

1815年[US039]2月26日Napoléonはエルバ島を脱出し3月20日パリ入城、再び帝位に就いて軍の動員に取り掛かった。一方、オーストリア、ロシア、イギリス、プロイセンは3月25日に第七次対仏大同盟を結成。スウェーデンネーデルランド、ライン同盟も参加した。Napoléonはリニーの戦いプロイセン軍を破ったが壊滅には至れなかった。Napoléonはワーテルローの戦いでイギリス・オランダ連合軍と激突したが、フランス軍別働隊のの追撃を振り払ったプロイセン軍が戦場へ到着してフランス軍は敗北した。6月22日Napoléonは再び退位セントヘレナ島へ流罪となった。11月20日第二次パリ条約の締結をもって、ナポレオン戦争は正式に終結した。フランスは7億フランの賠償金の支払いと同盟軍のフランス駐留と駐留経費負担も認めさせられた。

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フォンテーヌブロー条約にも関わらず、しばらくしても年金や皇后との合流は果たされず、ウィーン会議において同盟国側は約束を反故にしたことが明らかになった。Napoléonは同条約は破棄されたものとして1815年[US039]2月26日エルバ島を脱出し3月1日カンヌ近郊に上陸した。

フランス王となっていたルイ18世はミシェル・ネイに軍を与えて捕縛に派遣したが、ネイはナポレオン側へ寝返り合流してパリへ進撃した。Napoléonは3月20日にパリに入城、再び帝位に就き、直ちに軍の動員に取り掛かった。

一方、オーストリア、ロシア、イギリス、プロイセンは3月13日にウィーン会議でナポレオン復帰の無効を決定し、3月25日に第七次対仏大同盟を結成した。スウェーデンネーデルランド、ライン同盟も参加した。  

当時、イギリス・オランダ連合軍とプロイセン軍はベルギー方面にあり、オーストリア軍はライン方面と北イタリアに展開していた。Napoléonは同盟軍が合流する前に各個撃破すべく、フランス軍主力を率いてベルギーへ向かった。

6月15日フランス軍はリニーの戦いでプロイセン軍を破った。しかし側面を衝く予定であったネイ軍団が6月16日のカトル・ブラの戦いでイギリス軍によって足止めされたため、プロイセン軍の撃滅には失敗した。Napoléonはグルーシーに一軍を与えてプロイセン軍の追撃に派遣し、自身はイギリス・オランダ連合軍と決戦するためにワーテルローへ向かった。

6月18日フランス軍7万2,000とイギリス・オランダ連合軍6万8,000がワーテルローの戦いで激突した。フランス軍がやや優勢な状況だったが、グルーシーの追撃を振り払ったプロイセン軍が戦場へ到着してフランス軍の側面へ猛攻をかけフランス軍は潰走。プロイセン軍の追撃によってフランス軍は完全に崩壊した。

6月22日Napoléonは再び退位を余儀なくされ、セントヘレナ島へ流罪となった。7月8日ルイ18世がフランス国王に復位した。

11月20日第二次パリ条約の締結をもって、ナポレオン戦争は正式に終結した。1814年[US038]5月30日の第一次パリ条約で第六次対仏大同盟諸国とフランスとが講和した後、百日天下でフランス国民がナポレオンに対して広範な支持を与えたことで、第二次パリ条約で第七次対仏大同盟諸国が提示した講和条件はより厳しいものとなった。

第一次パリ条約とは異なり、第二次パリ条約の締結国はイギリス、オーストリア、ロシア、プロイセンの4国で、フランスは締結国ではなかった。また、第一次パリ条約で認められたフランスの領土は「1792年当時の領土」であったが、第二次パリ条約ではこれが「1790年当時の領土」へと縮小された。さらに、フランスは7億フランの賠償金の支払いを課せられ、最長5年間の同盟軍のフランス駐留と駐留経費の負担も認めさせられた。

パリ条約の締結と同じ日、オーストリア、ロシア、プロイセンによって神聖同盟が締結された。

 

文責:鵄士縦七