Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

フランスの地政学09

前回まで8日に渡ってNapoléonの戦争を学んできた。フランスの視点で、フランス革命戦争をクールにザックリまとめると以下の通り。

1792年[US016]フランス革命政府がオーストリアに宣戦してフランス革命戦争勃発。徴兵制を布いたフランスは攻勢に転じ、1795年[US019]バーゼルの和約によりプロイセンと講和してラインラントを併合。第二次バーゼルの和約によりスペインと講和してサントドミンゴを割譲。1797年[US021]カンポ・フォルミオの和約によりオーストリアと講和してネーデルラントロンバルディア、地中海のコルフ島アドリア海の島々を割譲した。 

オーストリアがラシュタット会議を引き延ばす中、Napoléonがエジプト遠征に失敗。フランスは再び戦わねばならなかった。1799年[US023]第一統領となったNapoléonはマレンゴの戦いとホーエンリンデンの戦いでオーストリアを撃破。 1801年[US025]リュネヴィルの和約により、バタヴィア共和国ヘルヴェティア共和国チザルピーナ共和国リグリア共和国を承認させ、ラインラント併合も承認させた。1802年[US026]アミアンの和約を締結してイギリスとも講和。フランス革命戦争はフランスの勝利に終わった。

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フランス第一共和政は国民の力で周辺各国の干渉を撃退することに成功した。しかし、講和会議をオーストリアが意図的に引き延ばす間に、Napoléonがエジプト遠征に失敗したことで戦争を継続することになり、共和政を諦めて帝政を選ぶこととなった。

イギリスとの戦争状態が続いていたとは言え、不用意なエジプト遠征をせず、共和政のままでフランス革命戦争終結させていたら、ナポレオン戦争は起こらなかったのだろうか?とSynmeは想像してしまう。WashingtonとNapoléon、2人の英雄の差異が革命を成功させた両国の歴史の違いに帰結しているのだろうか?

 

Synmeが過去8回に掲載したフランスの地政学のうち、フランス革命戦争の"クールにザックリ"部分も再掲しておく。

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【1793-1797第一次対仏大同盟】1792年[US016]フランス革命政府がオーストリアに宣戦してフランス革命戦争勃発。1793年[US017]フランス第一共和政の打倒を目指す第一次対仏同盟が結成され、フランスは、イギリス、スペイン、オーストリア、南ネーデルラントプロイセンサルディーニャナポリの7ヶ国連合軍と戦うこととなった。徴兵制を布いたフランスは攻勢に転じ、1795年[US019]バーゼルの和約によりプロイセンと講和し、ラインラントを併合。同年第二次バーゼルの和約によりスペインと講和し、サントドミンゴを割譲。1797年[US021]カンポ・フォルミオの和約によりオーストリアと講和し、南ネーデルラントロンバルディア、地中海のコルフ島、アドリア海の島々を割譲。第一次対仏大同盟は崩壊し、交戦国はイギリスだけとなった。 

【1798-1801第二次対仏大同盟】オーストリアがラシュタット会議を引き延ばす中、Napoléonがエジプト遠征に失敗。Napoléonの不在を好機と見たオーストリア1798年[US022]第二次対仏同盟を結成し、再度参戦した。フランスは、イギリス、オーストリア、ロシア、トルコの4ヶ国連合軍と戦うこととなった。オーストリアは一時イタリアを奪還したが、1799年[US023]クーデターにより第一統領となったNapoléonにマレンゴの戦い(1800年[US024])で敗北、ホーエンリンデンの戦い(同年)でドイツ方面でも敗北。 1801年[US025]リュネヴィルの和約により、オーストリアバタヴィア共和国ヘルヴェティア共和国チザルピーナ共和国、リグリア共和国の承認を再確認し、フランスによるラインラントの併合を承認した。再びイギリスのみが交戦を続けることとなったが、1802年[US026]アミアンの和約を締結してフランスと講和。フランス革命戦争はフランスの勝利に終わった。

 

文責:鵄士縦七