Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ロシアの地政学23:1838-1842第1次アングロ・アフガン戦争

ひきつづきロシアの地政学を学ぶ。今回は第1次アングロ・アフガン戦争。満を持してThe Great Gameの始まりである。最初に、クールにザックリまとめる。

1838年[US062]イギリス東インド会社アフガニスタン首長国に対して宣戦布告し第1次アングロ・アフガン戦争勃発。アフガニスタンへの軍の進駐を狙ったが失敗。1842年[US066]アフガニスタンの首長が帰国・復位した。

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ドースト・ムハンマド・ハーンが1826年[US050]にアフガニスタン首長国バーラクザイ朝を建国した(ドースト・ムハンマドは1835年[US059]よりアミール(首長)を称した)。

イギリスはロシアに対抗すること、ドースト・ムハンマドの権力強化を妨げることを目的として、アフガニスタン領内へのイギリス東インド会社軍の進駐を求めた。

ドースト・ムハンマドがこれを拒否すると、1838年[US062]10月1日イギリス東インド会社アフガニスタン首長国バーラクザイ朝に宣戦布告。第1次アングロ・アフガン戦争が勃発した(1838年[US062]10月1日〜1842年[US066]10月)。

12月に出発したイギリス東インド会社軍は、翌1839年[US063]3月にクエッタからアフガニスタン領内に入ると、カンダハール(4月25日)、ガズナ、カーブル(8月7日)を次々に占領した。

1840年[US064]にはドースト・ムハンマドも投降し、イギリス東インド会社軍は一旦アフガニスタンを平定した。しかし、バーミヤーンでバーラクザイ朝の勢力が抵抗を続け、アフガニスタンの各地で反乱が勃発。1842年[US066]1月、カーブルに駐留していたイギリス東インド会社軍は撤退したが、冬季の峠越えとアフガン兵の襲撃により全滅してしまう。
同年秋、イギリスは東インド会社軍は、再び派兵してカーブル周辺で報復作戦を展開するが、戦争の継続を断念せざるを得なかった。10月、捕らえられていたドースト・ムハンマドの帰国と復位が認められて第一次アフガン戦争は終結した。 

Synmeがもっと学ばないといけないが、ことの発端はロシアがイランにアフガニスタン侵攻を命じたことのようだ。明示的にはロシアが出てこないものの、この戦争が The Great Game(第1期は1813年[US037]〜1907年[US131]) の端緒の戦争とされるようだ。

The Great Gameが始まった1813年[US037]は何の年か?第1次イラン・ロシア戦争(1804年[US028]〜1813年[US037]10月24日)にロシアが勝利し、ゴレスターン条約が締結された年である。ロシアはグルジアジョージア)と北アゼルバイジャンを獲得した。

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1804年[US028]からザカフカース地方を巡って第1次イラン・ロシア戦争が始まった。ロシアが勝利し、1813年[US037]10月24日ゴレスターン条約を締結。ロシアはグルジアジョージア)と北アゼルバイジャンを獲得した。 

 

文責:鵄士縦七