Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ニッポンの開国03:1808イギリスのフェートン号事件

ニッポンの開国というかニッポンの国際外交への復帰の過程をいっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編で学ぶ。今回はフェートン号事件。最初に事実だけ。

1808年[US032]オランダ船拿捕を目的とするイギリスの軍艦フェートン号が不法に長崎に侵入した。 

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フランス革命は1789年[US013]7月14日のバスティーユ襲撃に端を発し、1792年[US016]9月21日に国民公会によってブルボン王政の廃止が宣言されLouis XVIは退位、フランス第一共和政(French First Republic)が始まった。

一方、一足早い1792年[US016]4月20日オーストリアによる内政干渉に対してフランス革命政府が宣戦布告。フランス革命戦争(〜1802年[US026]3月25日)が勃発していた。

1793年[US017]オランダはフランス第一共和政に占領され、衛星国バタヴィア共和国が設立されていた。更に1804年[US028]5月18日Napoléonが皇帝となる(フランス第一帝政)と、1806年に弟Louis Bonaparteを国王とするホラント王国が代わって成立し、オランダの海外植民地はフランス第一帝政の影響下に置かれることとなった。

フェートン号事件は、対仏大同盟の図式であるイギリスvsフランスが、極東におけるイギリスによるオランダ船(すなわちフランスの衛星国の船)の拿捕という形で現れた事件である。日本にも出島のオランダ商館にも実害は生じなかったが、イギリスは野蛮な印象で初登場した格好となった。

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1792年[US016]フランス革命政府がオーストリアに宣戦してフランス革命戦争勃発。1793年[US017]フランス第一共和政の打倒を目指す第一次対仏同盟が結成され、フランスは、イギリス、スペイン、オーストリア、南ネーデルラントプロイセンサルディーニャナポリの7ヶ国連合軍と戦うこととなった。徴兵制を布いたフランスは攻勢に転じ、1795年[US019]バーゼルの和約によりプロイセンと講和し、ラインラントを併合。同年第二次バーゼルの和約によりスペインと講和し、サントドミンゴを割譲。1797年[US021]カンポ・フォルミオの和約によりオーストリアと講和し、南ネーデルラントロンバルディア、地中海のコルフ島、アドリア海の島々を割譲。第一次対仏大同盟は崩壊し、交戦国はイギリスだけとなった。 

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文責:鵄士縦七