Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ドイツの地政学08:1866普墺戦争、プラハ条約(ドイツ連邦の解体)

ドイツ帝国すなわちプロイセン王国地政学、今回は普墺戦争プラハ条約によるドイツ連邦の解体を学ぶ。最初にクールにザックリまとめる。

1866年[US090]普墺戦争が勃発。プロイセンはドイツ連邦を脱退し、イタリア王国と同盟してオーストリア率いるドイツ連邦と戦った。プロイセンは近代兵器などを装備してオーストリアに大勝。ホルシュタイン公国に加えて、ハノーファー王国ヘッセン選帝侯ナッサウ公国フランクフルト自由市を併合して東西プロイセン領を統合することに成功した。

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1866年[US090]6月7日プロイセン軍オーストリアの管理するホルシュタイン公国に侵入したことで、普墺戦争(1866年[US090]6月7日〜8月23日)勃発。14日にプロイセンがドイツ連邦を脱退、15日に宣戦布告してホルシュタイン公国を占領した。

20日にはオーストリアのヴェネト領有を不満とするイタリア王国も、プロイセンと同盟してオーストリアに対して宣戦布告した。

道路、鉄道、電信設備などのインフラを整備しておいたこと、鋼鉄製の後部装填式大砲や世界初の後装式軍用ライフルなど装備の面でオーストリア軍を遥かに凌駕していたこと、鉄血宰相Otto von Bismarckの打倒オーストリアの策略通り第2次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争(1864年[US088]2月1〜10月30日)を共同で戦ったことによりオーストリア軍の装備・指揮系統などをプロイセンが事前調査済みであったことなどの理由により周辺国の予想を超えて、プロイセン軍は一方的に勝利した。

Napoléon IIIが介入する動きを見せたこともあり、休戦が成立。8月23日にプラハ条約が締結され、プロイセンはシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国全域とハノーファー王国ヘッセン選帝侯国、ナッサウ公国、フランクフルト自由市を領有してドイツ東西のプロイセン領の統合を達成した。また、ドイツ連邦はオーストリアを除外することとなり、プロイセン王国を中心とする北ドイツ連邦バイエルン王国を中心とする南ドイツ連邦の発足が定められた。オーストリアに対しては領土や賠償金を要求しなかった。10月12日イタリア王国ウィーン条約を締結、オーストリアはヴェネト地方を割譲した。 

盟主オーストリアの敗北によりドイツ連邦は解体された。思惑通り、プロイセン王国中心のドイツ統一へと、鉄血宰相Otto von Bismarckは着々と進んで行く。

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プロイセンウィーン会議において、ラインラントの獲得に成功していたが、飛び地であり国内物流にも支障が生じていた。

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ウィーン会議(1814年[US038]〜1815年[US039])は遅々として進まなかったが、Napoléonのエルバ島脱出と復位の報に接して妥協が成立した。オーストリアはドイツ連邦の盟主となりロンバルド=ヴェネト王国の国王となった。ロシアは、フィンランド大公国とポーランド立憲王国を承認させ、オスマン帝国からベッサラビアを獲得。プロイセンはラインラントを含め東西に領土を拡大。イギリスは、フランスからマルタ島を、オランダからセイロン島とケープ植民地を獲得、何より制海権を確立させた。スウェーデンデンマークからノルウェーを獲得してスウェーデンノルウェー連合王国となった。フランス復古王政セネガルを植民地として承認された。その他、ネーデルラント王国が成立、サルデーニャ王国が領土拡大、ナポリ王国復古、スペイン王国復古、スイス連邦永世中立国として承認された。 

 

文責:鵄士縦七