Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ニッポンの開国16:1854ロシアのプチャーチン再々来航(黒船1隻)、1855日露和親条約

ニッポンの開国というかニッポンの国際外交への復帰の過程をいっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編で学ぶ。今回はプチャーチンの再々来航。真摯なロシアは不本意ながら、アメリカ、イギリスに次いで三番手となってしまうが、津波に襲われながらも日露和親条約を締結する。最初に事実だけ。

1854年[US078]12月ロシアのプチャーチンが黒船1隻(ディアナ)でみたび来航し、1855年[US079]遂に日露和親条約を締結した。ロシアには箱館(函館)、下田、長崎が開港され、最恵国待遇が与えられ、択捉島以南をニッポン領、得撫島以北をロシア領とし、樺太は雑居地として領土が規定された。 

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クリミア戦争(ロシア・トルコ戦争、1853年[US077]3月28日〜1856年[US080]3月30日)は続いていたが、1854年[US078]12月3日プチャーチンが黒船1隻(ディアナ)で3度目の今回は下田に来航し幕府全権と会談した。

なんど交渉開始直後の1854年[US078]12月23日、安政東海地震が発生しディアナ号も津波により大破し、乗組員にも死傷者が出た。

ディアナ号は結局航行不能となり、伊豆の戸田村(へだむら、現沼津市)でディアナ号にあった他の船の設計図を元にロシア人指導の下、日本の船大工により代船ヘダ号が建造され、プチャーチンの帰国に使用された。

1855年[US079]1月1日中断されていた外交交渉が再開され、2月7日プチャーチンは遂に日露和親条約を締結した。

ロシアには箱館(函館)、下田、長崎が開港され、最恵国待遇が与えられ、千島列島に関しては択捉(エトロフ)島以南をニッポン領、得撫(ウルップ)島以北をロシア領とし、樺太は日露両国人の雑居地として相互に治外法権を認めた。

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ヘダ号を原型として、君沢形(きみさわがた、くんたくがた)という西洋式帆船10隻が量産された。スクーナーと呼ばれる帆装形式で君沢は戸田村が属する君沢郡に由来する。ちゃっかり技術移転が図られていた様だ。すばらしい。

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1853年[US077]フランスとイギリスの支援を取り付けたオスマン帝国がロシアに宣戦布告して、クリミア戦争が勃発した。ロシアはフランス第二帝政オスマン帝国、イギリス及びサルディーニャの同盟軍に敗北。1856年[US080]にパリ条約が締結され、1840年ロンドン条約の内容が再確認された。 

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文責:鵄士縦七