ニッポンの開国24:1861日普修好通商条約
ニッポンの開国というかニッポンの国際外交への復帰の過程をいっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編で学ぶ。今回は日普修好通商条約。最初に事実だけ。
1861年[US085]1月プロイセン王国と江戸幕府は日普修好通商条約を締結した。
1861年[US085]1月24日江戸幕府とプロイセン王国は日米修好通商条約(1858年[US082]7月29日)と同様の日普修好通商条約に調印した。日本は関税自主権を失い、外国人に治外法権を認めたため、以後長期にわたって苦しむことになった。
プロイセン王国も日本との国交樹立へと動き、1860年[US084]にフリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルク伯爵を派遣していた。
この時のプロイセン王国は第1次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争(1848年[US072]3月24〜1852年[US076]5月8日)に負けた後であり、まだプロイセンの鉄血宰相Otto Eduard Leopold Fürst von Bismarck-Schönhausen(首相在任期間1862年9月23日〜1872年12月21日、1873年11月9日〜1890年3月18日)も登場していない。
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1848年[US072]第1次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争が勃発、プロイセンはシュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国を支援して、デンマーク及びスウェーデン義勇軍と戦ったが敗北した。
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1864年[US088]第2次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争が勃発、Bismarckはオーストリアと同盟し、デンマークを孤立させて勝利した。デンマークはウィーン条約によりプロイセンとオーストリアにシュレースヴィヒ公国、ホルシュタイン公国及びザクセン=ラウエンブルク公国を割譲した。
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文責:鵄士縦七