Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

Synmeのテニス Feedback-Loop20190510

 

文責:鵄士縦七

  

 

Synmeのテニス Feedback-Loop20190508

 

文責:鵄士縦七

  

 

フランスの地政学46

つづいて普仏戦争(1870年[US094]7月19日〜1871年[US095]5月10日)から露仏同盟(1891年[US115])までを復習する。

Napoléon IIIが捕虜となって2日後には共和国宣言がなされ(フランス第三共和政(1870年[US094]9月2日〜1940年[US164]6月22日))、フランスは普仏戦争を継続したがドイツに敗北した。1871年[US095]5月10日フランクフルト講和条約を締結し、フランス第三共和政はプロイセンに対するアルザス及びロレーヌ北部の割譲と賠償金50億フランの支払を認めた。

f:id:synme:20190505231626j:plain

Napoléon IIIはナポレオン戦争に敗北した「敗戦国」フランスの国際的立場を引き上げた。しかし、最後は「大コケ」で捕虜になった挙句、フランスはアルザス・ロレーヌを失い巨額の賠償債務を負ってしまった。

せっかく開通させたスエズ運河も、1875年[US099]スエズ運河会社株式のほぼ半分をエジプトが売却してしまったために、イギリスが筆頭株主となり、やがて実効支配することとなってしまった。 

しかし、である。フランス第三共和政には植民地開発と言う活路があった。復古王政、七月王政、第二帝政がアフリカとアジアに足掛かりを造ってくれていたのだ。

 

フランス領西アフリカに当たる地域の侵略は継続する傍ら、 フランス第三共和政はチュニジア侵攻(1881年[US105]4月)からアフリカ侵略を本格的に再開させた。1878ベルリン会議(1878年[US102])6月13日〜7月13日)によってフランスの宗主権が列強に認められたことが直接の契機のようだが、普仏戦争から約10年経って国力が回復していたはずだ。

1881年[US105]5月12日フランス第三共和政はチュニジアに勝利し、バルドー条約を締結してチュニジアの防衛・外交権を獲得、事実上の保護国化に成功した。また、フランス領赤道アフリカに当たる地域の侵略(1882年[US106]11月30日〜1910年[US134]1月15日)も開始している。

 

一方、インドチャイナでは絶好調。フランス領インドシナ連邦を着々と建設していった。

まずトンキン戦争(1883年[US117])に勝利して阮朝(グェン朝、越南)を保護国化、清仏戦争(1883年[US117]〜1885年[US119])にも勝利して清に阮朝の宗主権を放棄させた。 そして1887年[US121]10月17日にフランス領インドシナ連邦が成立、コーチシナ、アンナン、トンキン(現在のカンボジアとベトナムにあたる地域)を領土とした。

翌1888年[US122]には、シップソーンチュタイ地方(アンパバーン王国北東部:ディエンビエン省、ライチャウ省、ソンラ省;現在のラオス北部にあたる)も保護領化することに成功した。

 

そうこうするうちにドイツ第二帝国の「敵失(エラー)」でフランス第三共和政は1891年[US115]露仏同盟の締結に成功した。 ナポレオン戦争でイギリス、プロイセン、オーストリア、ロシアに敗れたフランスにとって、プロイセンおよびオーストリアの背後に位置するロシアとの同盟は地政学的な価値が大きい。

Otto von Bismarckが1887年[US111]6月18日に締結した独露再保障条約を、Wilhelm IIが1890年[US114]に更新拒絶したのだ。このエラーはドイツ第二帝国が犯した最大のものだとSynmeは思う。Wilhelm IIがWilhelm Iと同様にBismarckと信頼関係を築けていたならば、歴史は大きく違っていたかもしれない。

とはいえ、露仏同盟の締結に始まるフランス第三共和政の外交を次回学んで行く。「敵失(エラー)」はあくまで有効活用つまりはその隙につけ込むことができて初めて意義があるのだ。

 

---

synme.hatenablog.com

synme.hatenablog.com

 

 

文責:鵄士縦七

フランスの地政学45

さて、近現代ニッポンの践祚・即位の学習に想定よりも時間がかかってしまったけれど、Great Game終焉に至るフランスの地政学を簡単に振り返る。

19世紀末〜20世紀初頭のGreat Game終焉当時、フランス第三共和政はアフリカの植民地を急速に拡大していく一方で、ドイツ第二帝国の台頭に直面していた。

そしてフランス第三共和政が採った外交方針は、イギリスに譲歩して敵対することを避け、ロシアがドイツ第二帝国に圧力をかけられる様にロシアとイギリス及びニッポンを結びつけることであった。

f:id:synme:20190502123428j:plain

フランスの地政学の復習にあたって、ちょっと遡りすぎかもしれないけれど、今回まずは普仏戦争(1870年[US094]7月19日〜1871年[US095]5月10日)までを復習する。

 

Napoléon後のフランスは王政に戻っていた(フランス復古王政(1814年[US038]4月6日〜1830年[US054]7月29日))。

その末期1830年[US054]6月に始まったアルジェリア侵略(1830年[US054]6月14日〜1847年[US071])は、七月革命(1830年[US054]7月27日〜29日)でフランス復古王政が打倒された後も七月王政(1830年[US054]8月9日〜1848年[US072]2月24日)に継承された。アルジェリア侵略は1847年[US071]に完了した。フランス七月王政は地中海を内海とする新しいフランスを形作り、後のアフリカ侵略の礎を築いていたのである。

一方のアジアでは、清がイギリスに敗北していた(アヘン戦争(1839年[US063]9月4日〜1842年[US066]8月29日))。1844年[US068]10月24日フランス七月王政は清と黄埔条約を締結した。これはイギリスの南京条約(1842年[US066]8月29日)および虎門寨追加条約(1843年[US067]10月18日)、アメリカの望厦条約(1844年[US068]7月3日)と同様の不平等条約であり、フランス七月王政はチャイナ侵略においても足掛かりを築いていたのである。

 

そして、1848年革命(US072)が起こりウィーン体制が崩壊した。フランスでも二月革命(1848年[US072]2月23日〜12月2日)によってフランス第二共和政が成立、大統領にはNapoléon III(Charles Louis-Napoléon Bonaparte) が選出された。

 

Napoléon IIIは後にクーデターを成功させ、フランス第二帝政(1852年[US076]12月2日〜1870年[US094]9月4日)が始まる。Napoléon IIIはクリミア戦争(ロシア・トルコ戦争、1853年[US077]3月28日〜1856年[US080]3月30日)に参戦・勝利することでフランスの国際的地位を復活させた。

アフリカでもセネガルやコートジボワール(象牙海岸)など大西洋沿岸部からアフリカ侵略を展開しはじめた。

Napoléon IIIはアロー戦争(第2次アヘン戦争、1856年[US080]6月28日〜1860年[US084]10月/11月)でもチャイナに勝利した。

また、インドシナ出兵(1858年[US082]8月31日〜1862年[US086]6月5日)でベトナム(阮朝  (グェン朝、越南))に侵攻・勝利し、カンボジアを巡ってタイとベトナムが争う間に1863年[US087]8月11日カンボジアを保護国化することに成功(フランス・カンボジア保護条約の締結)し、インドチャイナ侵略も前進させた。

しかし、メキシコ出兵(1861年[US085]12月8日〜1867年[US091]6月21日)に失敗してNapoléon IIIは権威を失墜し、普仏戦争(1870年[US094]7月19日〜1871年[US095]5月10日)中の1870年[US094]9月2日にNapoléon IIIは捕虜となってしまった。 

--- 

synme.hatenablog.com

 

文責:鵄士縦七

Synmeのテニス Feedback-Loop20190506

 

文責:鵄士縦七

  

 

Synmeのテニス Feedback-Loop20190502

 

文責:鵄士縦七

  

 

近現代ニッポンの践祚・即位06:2019.5.1今上天皇徳仁即位/令和に改元

明治以降のニッポンの践祚・即位について簡単に確認してきた。ラストの今回は今上(きんじょう)天皇徳仁(なるひと)即位と令和への改元。最初に、クールにザックリまとめる。  

2019年[US243]5月1日今上天皇徳仁が即位した。同日付けで令和に改元した。

f:id:synme:20190501232711j:plain

2019年[US243]5月1日今上天皇徳仁(なるひと)が即位した。今上天皇は戦後生まれで初めての天皇である。

また、前の天皇明仁(あきひと)は上皇となった。

そして、同日付けで令和に改元された。令和はニッポンにとってどんな時代になるのだろうか?

後に振り返ってどのような歴史的意義を有していたと評されるのかまだ分からないけれど、令和は国際的なイベントがニッポンで立て続けに開催されて始まる予定である。

まずはG20財務大臣・中央銀行総裁会議が6月初旬に福岡で、そしてG20首脳会合(サミット)が6月末に大阪で、それぞれ開催される予定である。G20財務大臣・中央銀行総裁会議は1999年[US223]から、G20首脳会合は2008年[US232]から開催されているところ、ニッポンでの開催はいずれも初めてである。ちなみにG20はG7(ニッポン、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、カナダ)、EU、ロシア、新興国11カ国(中華人民共和国、インド、ブラジル、メキシコ、南アフリカ、オーストラリア、韓国、インドネシア、サウジアラビア、トルコ、アルゼンチン)で構成されている。

次いで、ラグビー・ワールドカップの開催が9月下旬〜11月初めで予定されている。そして、来年2020年[US244]には東京オリンピックが開催予定である。国際的なスポーツイベントが続くわけである。サッカー・ワールドカップも再度誘致するべきであろう。

そして、2025年[US249]には大阪・関西万博の開催が予定されている。以下にまとめておく。

Synme備忘用の今後のニッポンの国際イベント開催予定【令和】: 

  • 2019年[US243]5月1日:今上天皇徳仁即位
  • 2019年[US243]6月8日〜9日:福岡G20財務大臣・中央銀行総裁会議
  • 2019年[US243]6月28日〜29日:大阪G20首脳会合
  • 2019年[US243]9月20日〜11月2日:ラグビー・ワールドカップ※初開催
  • 2020年[US244]7月24日〜8月9日:2020年東京オリンピック ※56年振り2度目
  • 2025年[US249]:2025年大阪・関西万博
    ※1970年大阪万博以来55年振り、2005年「愛・地球」博以来20年振り3度目

 

文責:鵄士縦七