Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

アメリカの地政学17:1945-1991冷戦Vol.8

前回までゆげひろのぶ氏の3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編に基づき6回に分けて学んできた通り、1941年[US165]にイギリスの跡を継いで超大国(世界帝国)となったアメリカは、【冷戦の荒波】を乗り切って、1991年[US215]建国215年目のクリスマスに冷戦に勝利した。

改めて、もう少し短くまとめると、

【冷戦第一波】Trumanの原爆投下により決定的となった米ソ対立は、封じ込め政策・欧州復興計画やNATO設立により欧州で緊張を高めた。一方、ソ連の原爆保有と共産チャイナの成立によりアジアで朝鮮戦争が勃発(1950年[US174])した。Truman退任、Stalin死去により、朝鮮戦争は休戦しKhrushchev訪米(1959年[US183])が実現。しかし、数多の軍事同盟締結、ワルシャワ条約機構設立、ミサイル開発競争など東西陣営の対立は激化。

【冷戦第二波】U-2撃墜事件(1960年[US184])を機にJ.F.KennedyとKhrushchevは対立を深めた。ベルリンの壁建設でベルリン危機は回避されたが、キューバ危機勃発(1962年[US186])により冷戦第二にして最悪のピークに達した。Johsonによりベトナム戦争は泥沼化。Nixonがソ連、中国との緊張緩和、ベトナム戦争停戦(1973年[US197])を達成した。 

【冷戦第三波】南アジアや中東で共産国家誕生が相次ぐ中、イラン革命を背景としてソ連のアフガン侵攻(1979年[US203])によって、米ソ対立は第三かつ最後のピークに達した。 ソ連は、アフガン侵攻の泥沼化でReaganの仕掛けた更なる軍拡競争に対抗できなかった。Gorbachevが書記長に就任(1985年[US209])してアフガニスタンから撤退、G.H.Bushと冷戦終結を宣言(マルタ会談)したが、1991年[US215]にソ連は崩壊した。

これを基に、アメリカの地政学という趣旨に戻って、アメリカの視点で、冷戦をクールにザックリまとめると以下の通り。

【冷戦第一波】アメリカは原爆投下により対決姿勢を鮮明にし、封じ込め政策・欧州復興計画やNATO設立により欧州でソ連と対立した。一方、ソ連の原爆保有達成を背景に、アジアで朝鮮戦争が勃発(1950年[US174])したが、北緯38度線は譲らなかった。アメリカは朝鮮戦争を休戦しKhrushchev訪米(1959年[US183])を実現させる一方で、数多の軍事同盟を締結して西側陣営の拡充を図るも、ワルシャワ条約機構設立、ミサイル開発競争など東側陣営との対立は激化。

【冷戦第二波】アメリカの高高度偵察機が撃墜され、(U-2撃墜事件、1960年[US184]たことを機にソ連との対立が表面化。ベルリン危機は外交で回避に成功したが、キューバ革命政権の転覆には失敗しキューバ危機(1962年[US186])を招く。核戦争の危機は回避され、アメリカは泥沼化したベトナム戦争を外交で停戦(1973年[US197])まで持ち込んだ。 

【冷戦第三波】しかし、アメリカは内政で混乱し、南アジアや中東諸国の共産化を止められなかった。親米のイランまで反米に転じてしまった結果、ソ連のアフガン侵攻(1979年[US203])を招く。 ところが、アフガン侵攻が泥沼化してソ連が苦境に。アメリカは更なる軍拡競争を仕掛けて、ソ連をギブアップさせた。Gorbachevが書記長に就任(1985年[US209])し、アメリカとソ連で冷戦終結を宣言(マルタ会談)したが、東側陣営の求心力を失ったソ連1991年[US215]に崩壊。アメリカが冷戦に勝利した。

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Synmeの能力不足で学習に長く掛かってしまった冷戦、至らないところは多いと思うが以上でとりあえずいったん終了。

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Synmeが過去6回に掲載した「冷戦の荒波」の"クールにザックリ"部分も再掲しておく。

【冷戦第一波】

第二次世界大戦中から燻っていた米ソの対立は、Trumanの原爆投下により決定的となった。Trumanの封じ込め政策・欧州復興計画やチェコスロバキア政変を端緒とするNATO設立により、欧州での対立が高まって行った。アメリカの予想より早いソ連の原爆保有と共産チャイナの成立によりアジアでの東西バランスが崩れた結果として、1950年[US174]朝鮮戦争が勃発した。

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Truman不出馬・退任、Stalin死去。EisenhowerとKhrushchevにより、朝鮮戦争および第1次インドシナ戦争は休戦となり、1959年[US183]のKhrushchev訪米に至る。しかし、アメリカの数多くの軍事同盟締結、ワルシャワ条約機構設立など東西陣営の対立の構図は鮮明になっていった。ソ連ICBM発射実験および人工衛星打上げを成功させミサイル開発競争において優位に立った。

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【冷戦第二波】

Eisenhower在任中のU-2撃墜事件(1960年[US184]5月1日)を機にアメリカとソ連の関係は悪化。J.F.Kennedyが就任するも、キューバ革命東ドイツからの人口流出を背景にJ.F.KennedyとKhrushchevはベルリンとキューバで対立を深めた。ベルリンの壁建設でベルリン危機は回避されたが、キューバ危機(1962年[US186]10月16-28日)勃発により米ソの対立は冷戦第二にして最悪のピークに達した。

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キューバ危機を受けて、部分的核実験禁止条約が締結されるなどした。J.F.Kennedyが暗殺され、Johsonは(Eisenhowerが始め、J.F.Kennedyが継続した)ベトナム戦争を拡大したが行き詰まる。Nixonが就任すると、ソ連、中国との緊張緩和を進め、SALT I 妥結(1972年[US196])、ベトナム戦争停戦(1973年[US197])を達成した。

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【冷戦第三波】

折角のパリ和平協定調印にも関わらず、アメリカはベトナムを放置。南アジアではベトナムラオスカンボジア共産国家が誕生し、中東でもアフガニスタン共産国家が誕生した。米ソデタントの流れは続いていたが、イラン革命を背景としてイスラム原理主義革命がアフガニスタン経由で飛び火してくることを懸念したソ連のアフガン侵攻(1979年[US203])によって、米ソ対立は第三かつ最後のピークに達した。 

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 ソ連は、アフガン侵攻の長期化に財政を圧迫され、Reaganの掲げたスターウォーズ計画(更なる軍拡競争)に対抗する力を有していなかった。Brezhnev、Andropov、Chernenkoが相次いで死去すると、政治経済の改革を目指すGorbachevが書記長に就任した(1985年[US209])。GorbachevはReaganとINF全廃条約を締結、アフガニスタンから撤退、G.H.Bushと冷戦終結を宣言(マルタ会談)したが、東欧革命・ドイツ統一バルト三国再独立等が相次ぎ、1991年[US215]にソ連は崩壊した。

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文責:鵄士縦七 

 

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