地政学を学ぶフレームワーク05
前回までアメリカの地政学として革命戦争から冷戦終了までを学んできた。次にどう学んで行くべきか、Synmeなりに色々と考えた。
その結果、Synmeは次回から以下のような順序で学んで行くことにした。
なぜ、この順序で学ぶことにしたのか?
言うまでもないことだが、アメリカが唯一の超大国となった(1991年[US215]12月25日)後の現代史は2001年[US225]9月11日アメリカ同時多発テロ事件を起点として紡がれている。つまり、中東地域を学ばないと、2010年代・2020年代のアメリカの地政学はその基礎を欠くのだ。
中東問題と言えば、イギリスだ。イギリスの三枚舌外交について高橋洋一氏の世界のニュースがわかる! 図解地政学入門p164-171を参照すると、高橋氏は以下の様に書いている。
(中略)同盟国として参戦したオスマン帝国の解体では、現代にまで続く中東問題が芽生えてしまった。それを説明するには、第一次世界大戦中のイギリスの多重外交にまで遡らなくてはならない。
(中略)イギリスは、戦争を有利に進めるために、それぞれの利害関係者に異なる言質を与える「三枚舌外交」を行った。そして、今日まで続く中東問題の大本を作ってしまったのである。
具体的には、イギリスは以下のような外交を行った。
- 1915年[US139]10月フセイン・マクマホン協定により、イギリスはアラブ人にオスマン帝国からの独立を約束
- 1916年[US140]5月16日サイクス・ピコ条約により、イギリスはオスマン帝国領アジアをイギリス、フランス、ロシアで分割すること、パレスチナは共同統治とすることを秘密裏に取り決めた
- 1917年[US141]11月2日バルフォア宣言により、イギリスはユダヤ人がパレスチナに独立国家を築くことを認めた
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第一次大戦は連合国と同盟国によって争われた。同盟国の構成は、ドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、オスマン帝国、ブルガリア王国の4ヶ国であった。では、戦争に敗れた同盟国はどうなったか?
ブルガリア王国は、領土の割譲、賠償金の支払い、戦後軍備の制限などをヌイイ条約で取り決め講和した。ドイツ帝国も領土の割譲、(巨額ではあるが)賠償金の支払い、戦後軍備の制限等をヴェルサイユ条約で取り決め講和した。これらに対し、オーストリア・ハンガリー帝国とオスマン帝国はそれぞれ1918年[US136]10月31日と1922年[US146]11月17日に皇帝が海外に亡命して滅亡した。
中東問題の根幹は、オスマン帝国の解体にあったのだ。
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文責:鵄士縦七