Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

フランスの地政学02:1798-1801第二次対仏大同盟

ひきつづきフランスの地政学としての第二次対仏大同盟を学ぶ。今回はフランス革命戦争終結まで。最初にクールにザックリまとめる。

オーストリアがラシュタット会議を引き延ばす中、Napoléonがエジプト遠征に失敗。Napoléonの不在を好機と見たオーストリア1798年[US022]第二次対仏同盟を結成し、再度参戦した。フランスは、イギリス、オーストリア、ロシア、トルコの4ヶ国連合軍と戦うこととなった。オーストリアは一時イタリアを奪還したが、1799年[US023]クーデターにより第一統領となったNapoléonにマレンゴの戦い(1800年[US024])で敗北、ホーエンリンデンの戦い(同年)でドイツ方面でも敗北。 1801年[US025]リュネヴィルの和約により、オーストリアバタヴィア共和国ヘルヴェティア共和国チザルピーナ共和国リグリア共和国の承認を再確認し、フランスによるラインラントの併合を承認した。再びイギリスのみが交戦を続けることとなったが、1802年[US026]アミアンの和約を締結してフランスと講和。フランス革命戦争はフランスの勝利に終わった。

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1798年[US022]1月19日にラシュタット会議が始まった。 全面的な戦争終結を目指した講和会議であったが、オーストリアは講和せず会議を引き延ばした。

1798年[US022]7月3日Napoléonはイギリスとインドとの連携を断つ目的でエジプト遠征を進言し、容れられた。Napoléon軍はマルタ島を経由して7月3日にエジプトに上陸した。7月21日にはピラミッドの戦いに勝利し、7月25日にはカイロ入城。しかし、8月1日にはナイルの海戦においてイギリス地中海艦隊がフランス艦隊を殲滅、Napoléon軍の補給と退路を奪いつつあった。

Napoléonはエジプトから動けなくなり、Napoléonの不在を好機と見たオーストリア1798年[US022]12月24日第二次対仏同盟(〜1801年[US025]2月9日)を結成し、再度参戦した。オーストリアとしてはラシュタット会議で時間稼ぎをして最終的な講和をせずに戦闘再開まで漕ぎ着けたので、外交的勝利と言える。ラシュタット会議は1799年[US023]3月21日に決裂。

この第二次対仏大同盟(1798年[US022]12月24日〜1801年[US025]2月9日)の参加国はイギリス、オーストリア、ロシア、トルコの4ヶ国だった。イギリスは盟主であり、かつ戦い続けていたので当然として、自国領土のエジプトに侵攻されたトルコが参加し、そのトルコを支援する形でロシアも参加した形である。

フランス第一共和政は再び劣勢に立ちオーストリアがイタリアを奪還するに及んだ。1799年[US023]8月22日Napoléonは側近のみを連れてフランス本土へ舞い戻り、同年11月9日にはプリュメール18日のクーデターを起こして統領政府を樹立。自ら第一統領(第一執政)となり、実質的に独裁権を握った。

Napoléonはアルプス山脈をグラン・サン・ベルナール峠で越えて北イタリアに入り1800年[US024]6月14日のマレンゴの戦いにおいてオーストリア軍に勝利。同年12月3日のホーエンリンデンの戦いでフランス軍はドイツ方面でもオーストリア軍に勝利した。 

1801年[US025]2月9日リュネヴィルの和約が締結され、オーストリアはフランスの諸衛星国(バタヴィア共和国ヘルヴェティア共和国チザルピーナ共和国、リグリア共和国)の承認を再確認し、フランスによるラインラントの併合を承認した。

再びイギリスのみが交戦を続けることとなったが、1802年[US026]3月25日アミアンの和約を締結してイギリスもフランスと講和した。これによりフランス革命戦争はフランスの勝利に終わった。

フランスは共和制を諦めてNapoléonの実質的独裁制を採ってフランス革命戦争に勝利した。しかし、カンポ・フォルミオの和約がオーストリアとの形だけの休戦だったのと同様。アミアンの和約もイギリスとの形だけの休戦に過ぎなかった。

フランスは領土も衛星国も増やしている途上だが、ドイツ方面と北イタリア方面の2正面の陸戦でオーストリアと対峙し、海戦ではイギリスに挑戦しなければならないという構図の厳しさは出始めているとSynmeは思う。フランスが戦い始めたのは自由(=革命)を守る戦いだったはずなのだが、既に第二次対仏大同盟を打ち破った段階では実質的に共和制を諦めざるを得ない状況に陥っていたわけで、民主主義を保ちながら自国の独立を守る難しさを示しているとSynmeは思う。

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Napoléonが指揮官の任を放り出し敵前逃亡した後のエジプト遠征はどうなったか?指揮官を失ったフランス軍はかろうじて抵抗を続け、1801年[US025]に生き残った1万5000人がイギリスとトルコに降伏。フランスへと帰国した。

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ヘルヴェティア共和国1798年[US022]から1803年[US027]の間にスイスに存在した共和国。1798年[US022]3月5日フランスはスイスへ侵攻。スイスの盟約者団は崩壊し、4月12日にヘルヴェティア共和国の建国が宣言されフランスの衛星国となった。1803年[US027]2月19日、Napoléonの仲裁により以前の盟約者団が復活し、中央集権的な政府は廃止された。

 

文責:鵄士縦七