ロシアの地政学06:1795第3次ポーランド分割
ひきつづきロシアの地政学を高橋洋一氏の世界のニュースがわかる! 図解地政学入門に学ぶ。今回はポーランド分割。3回に分けて行われて、最後はポーランドの国そのものが消滅してしまったと言う乱暴な話。最初に、クールにザックリまとめる。
1795年[US019]、ロシア、プロイセン及びオーストリアの3国がポーランドの全領土を分割(第3次ポーランド分割)してしまった。
1762年[bUS014]10月3日に戴冠したYekaterina II、トルコ(オスマン帝国)に勝利(1774年[bUS002])し、第一次武装中立同盟(1780年[US004]〜1783年[US007])でイギリスを孤立させてアメリカの独立を助け、スウェーデンとの戦争をドローで収集(1788年[US012]6月〜1790年[US014]8月)して、トルコ(オスマン帝国)に再び勝利(1787年[US011]4月〜1791年[US025]12月29日、ヤッシー条約)してバルカン半島進出の足掛かりを得て、お次はポーランドの全領土分割である。
さて、ポーランド分割は3度にわたって行われた。1772年[bUS004]8月5日に第1次ポーランド分割、1793年[US017]1月23日に第2次ポーランド分割、そして1795年[US019]10月24日が最後となる第3次ポーランド分割だ。
ポーランド分割と呼ばれるが、分割の対象となったのは、ポーランド・リトアニア共和国の領土であった。
ポーランド・リトアニア共和国は1569年[bUS207]7月1日ルブリン合同によりポーランド王国とリトアニア大公国が統合されて成立した。 その領土は広大で、現在のポーランド、ベラルーシ、ウクライナの一部、リトアニア、ラトビアの一部を含んでいた。
Synmeは知らなかったが、リトアニア大公国(リトアニア王国としての成立は1251年[bUS525]7月17日〜)は強大な国家だった。当初リトアニア人が支配した領土は「原リトアニア」と呼ばれる、現代のリトアニア共和国とほぼ同じ狭い地域だったが、人口の膨大なルーシ(現在のロシア・スモレンスク地方、ベラルーシ、西部ウクライナ)の正教徒の人々が住む広大な地域を包含する領土を形成していた。
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1796年[US020]11月17日にYekaterina IIが死去。南下政策は一旦収束する。Yekaterina IIの功績は衰退しつつあった西の大国ポーランド・リトアニア共和国を滅亡せしめ、南の大国トルコ(オスマン帝国)からアゾフ海、クリミア半島を獲得し、地中海への海路を確保した点にあった。
しかし、この両大国を制したことにより、この後のロシアはオーストリア、プロイセンそしてイギリスとの対立を深めていくことになる。同時に、Napoléon Bonaparteの出現によるフランス第一共和政・第一帝政とも対立するため、ロシアとヨーロッパ諸国との外交関係は複雑にならざるを得なかったかもしれないとSynmeは考える。この複雑な関係性は第二次世界大戦に至るまで基本的に変わらない。
とにかく今回、南で隣接するトルコ(オスマン帝国)だけでなく、西に隣接するポーランド・リトアニア共和国も大国であった、つまりロシアにとっては脅威であったという点についてSynmeは改めて学んだ。
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ポーランドについては、2020年代の地政学という観点からは重要だと考えているので、Synmeは改めて学ぶ予定だが、備忘のために高橋氏の世界のニュースがわかる! 図解地政学入門から引用しておく。
最後の分割後にはポーランドに残された領土はゼロ、つまりポーランドという国そのものが消滅してしまった。第一次大戦後、じつに120年あまりも後に一度独立するも、第二次世界大戦ではドイツとソ連に再び分割され、本格的な独立は1945年まで待たねばならなかった。
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ポーランド分割は、第1次と第3次がロシア、プロイセン、オーストリアの3国で行われ、第2次はロシアとプロイセンの2国で行われた。ロシア以外の2国について簡単に。
まず、ブランデンブルグ・プロイセンについて、ザックリまとめる。1701年[bUS075]にハプスブルク家に認められてプロイセン王国が成立。1806年[US030]に神聖ローマ帝国が解体されると、ブランデンブルク辺境伯領がプロイセン王国領ブランデンブルク州となった。
次に、オーストリア大公国(ハプスブルク君主国)について、ザックリまとめる。第1にオーストリア大公国(1457年[bUS319]〜1804年[US028])は神聖ローマ帝国内の領邦の1つ。第2に、ハプスブルク君主国(1526年[bUS250]〜1918年[US142])はハプスブルク家がオーストリア大公国に加えてハンガリー王国、ボヘミア王国(ボヘミア王冠領)を獲得して成立。1804年までは公式の名称を持っていなかったが、事実上の国家としてオーストリアと呼称されていた。既に形骸化していた神聖ローマ帝国がNapoléonの出現によりその実質も失うに至り、ハプスブルク家は1804年[US028]オーストリア帝国を成立させ、1867年[US091]Napoléonによるライン同盟成立後はオーストリア=ハンガリー帝国(〜1918年[US142])を総称とした。つまり、ポーランド分割当時は正式の呼称ではないが、オーストリア大公国(ハプスブルク君主国)が実情に近い呼称といえる。
文責:鵄士縦七