Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ロシアの地政学07:1798-1801第二次対仏大同盟

ひきつづきロシアの地政学を学ぶ。今回は第二次対仏大同盟をロシアの観点から学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。  

ロシアは第二次対仏大同盟(1798年[US022]〜1801年[US025])に参加し、北イタリアやスイスでオーストリアと共にフランスと戦った。北イタリアで勝利したが、第2次チューリッヒの戦い(1799年[US023])に敗北して撤退。翌1800年[US024]ロシアはフランスと和平を結び第二次対仏大同盟から脱落した。

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Yekaterina II(戴冠1762年[bUS014]10月3日〜死去1796年[US020]11月17日)は、トルコ(オスマン帝国)に勝利(1774年[bUS002])し、第一次武装中立同盟(1780年[US004]〜1783年[US007])でイギリスを孤立させてアメリカの独立を助け、スウェーデンとの戦争をドローで収集(1788年[US012]6月〜1790年[US014]8月)して、トルコ(オスマン帝国)に再び勝利(1787年[US011]4月〜1791年[US025]12月29日、ヤッシー条約)してバルカン半島進出の足掛かりを得て、1795年[US019]にポーランド・リトアニア共和国の全領土を分割(第1次1772年[bUS004]、第2次1793年[US017]、第3次1795年[US019])した。

Yekaterina II亡き後、ロシアはフランスとイギリスの間を揺れ動く外交の時代を迎える。まず、ロシアはイギリスと同盟してフランスに対峙する。

第二次対仏大同盟(1798年[US022]12月24日〜1801年[US025]2月9日)の参加国はイギリス、オーストリア、ロシア、トルコの4ヶ国だった。

この第二次対仏大同盟において、ロシアはオーストリアと共に北イタリア及びスイス(ヘルヴェティア共和国)でフランスと戦った。

北イタリアにおいてオーストリア軍はフランス軍に対し優勢だったが、Alexander Suvorov率いるロシア軍が加わり、カッサーノの戦い(1799年[US023]4月29日)でロシア・オーストリア同盟軍がフランス軍に勝利した。これにより、フランス軍は更に劣勢に立たされてジェノヴァまで後退した。

スイス(ヘルヴェティア共和国)において第1次チューリッヒの戦い(1799年[US023]6月4日〜7日) でオーストリア軍はフランス軍に勝利していた。その後、ロシア軍がオーストリア軍に加わり、ロシア・オーストリア同盟軍がフランス軍と対峙していた。

Alexander Suvorov率いるロシア軍が北イタリアからスイスに向かったが、第2次チューリッヒの戦い(1799年[US023]9月25日〜26日)でロシア・オーストリア同盟軍がフランス軍に敗北してしまったため、ロシア軍はアルプス越えを行ってスイスから退却した。

ロシアは翌1800年[US024]にフランスと和平を結び第二次対仏大同盟から脱落した。

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アレクサンドル・スヴォーロフ - Wikipedia

Alexandr Suvorovはロシア帝国の軍人であり、ロシア帝国歴代4人目にして最後の大元帥。軍事史上でも稀な不敗の指揮官として知られる。

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synme.hatenablog.com

オーストリアがラシュタット会議を引き延ばす中、Napoléonがエジプト遠征に失敗。Napoléonの不在を好機と見たオーストリア1798年[US022]第二次対仏同盟を結成し、再度参戦した。フランスは、イギリス、オーストリア、ロシア、トルコの4ヶ国連合軍と戦うこととなった。オーストリアは一時イタリアを奪還したが、1799年[US023]クーデターにより第一統領となったNapoléonにマレンゴの戦い(1800年[US024])で敗北、ホーエンリンデンの戦い(同年)でドイツ方面でも敗北。 1801年[US025]リュネヴィルの和約により、オーストリアバタヴィア共和国ヘルヴェティア共和国チザルピーナ共和国、リグリア共和国の承認を再確認し、フランスによるラインラントの併合を承認した。再びイギリスのみが交戦を続けることとなったが、1802年[US026]アミアンの和約を締結してフランスと講和。フランス革命戦争はフランスの勝利に終わった。

 

文責:鵄士縦七