ロシアの地政学22:1841ロンドン条約(五国海峡条約)
ひきつづきロシアの地政学を学ぶ。今回は1841年のロンドン条約。最初に、クールにザックリまとめる。
1841年[US065]ロシア、イギリス、オーストリア及びプロイセンにフランスを加えて締結されたロンドン条約(五国海峡条約)によりダーダネルス海峡およびボスポラス海峡の外国船通行が全面禁止された。
1839年[US063]、第2次トルコ・エジプト戦争(〜1840年[US064])が勃発し、再びエジプトがオスマン帝国を圧倒すると、オスマン帝国の解体を恐れるロシア、イギリス、フランス(オルレアン朝)が干渉した。
第2次トルコ・エジプト戦争の講和条約として、ロシアとイギリスがオーストリアとプロイセン立ち会いのもと合意した1840年ロンドン条約は妥協の産物であった。同条約では、ロシア艦隊にダーダネルス海峡およびボスポラス海峡の独占的航海権を与えたウンキャル・スケレッシ条約(1833年[US057]7月8日)が破棄され、ダーダネルス海峡およびボスポラス海峡の外国船通行が全面的に禁止されることになった。
Synmeが思うに、ロシアは怒り心頭だったに違いない。しかし、オスマン帝国を存続させる大前提のもと、このような譲歩をしなければいけなかった背景には、産業革命に成功していたイギリス(及びフランス)とロシアとの経済力の格差があったようだ。
ロシアの南下政策はまたイギリスの外交力によって阻止されてしまったのだ。国際関係においては、戦力に加えて外交力が重要なのだ。
列強の思惑は食い違ったため、まずは4国間で1840年ロンドン条約が締結されたが、翌1841年にはフランス(オルレアン朝)も加わってロンドン条約(五国海峡条約)が締結された。
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第2次トルコ・エジプト戦争(1839年[US063]〜1840年[US064])は、エジプト・シリアの世襲統治権を要求するムハンマド・アリーと宗主国オスマン帝国の間で行われた。ロシア、イギリス、フランス第二帝政の妥協がなされ、エジプトは名目的にはオスマン帝国の宗属関係にとどめおかれたと同時に、エジプト・スーダンにおけるムハマンド・アリーの世襲支配権(ムハンマド・アリー朝)が認められた。
文責:鵄士縦七