Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

フランスの地政学13:1856-1860アロー戦争(第2次アヘン戦争)

今回はフランスの地政学としてアロー戦争を学ぶ。最初にクールにザックリまとめる。

1856年[US080]Napoléon IIIはイギリスの共同出兵の要請に応じてアロー戦争に参戦。1858年[US082]清に勝利して天津条約を締結するが清が批准を拒否。1860年[US084]フランス・イギリス連合軍は北京を占領して北京条約を締結した。

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フランス第二帝政によるアジア植民地化の第一歩である。

イギリスが共同出兵を求めると、Napoléon III(Charles Louis-Napoléon Bonaparte)はフランス人宣教師の殺害を口実にイギリスの要請を受諾、アロー戦争(第2次アヘン戦争、1856年[US080]6月28日〜1860年[US084]10月/11月)に出兵した。

北京条約によって、イギリスは追加的に九竜半島南部を獲得したが、フランス第二帝政が獲得したのは清朝が没収したフランスの教会財産の返還だけであった。ちなみにフランスと清の北京条約締結日は1860年[US084]10月25日である。

Synmeが思うに、アロー戦争に勝利できたことがフランス第二帝政にとって重要であって、イギリスの方が「戦果」が大きかったことは問題でなかった。フランスは清朝の周辺を植民地化することで「戦果」を獲得して行くことになる。 

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1856年[US080]イギリスはアロー号事件を口実にフランスと共同で開戦。1858年[US082]清に勝利して天津条約を締結するが清が批准を拒否。1860年[US084]イギリス・フランス連合軍は北京を占領して北京条約を締結。清は牛荘、登州、漢口、九江、鎮江、台南、淡水、汕頭、瓊州、南京、天津を開港させられた。イギリスは九竜半島南部を獲得した。

 

文責:鵄士縦七