Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

鉄道と運河の地政学03:1875イギリスがスエズ運河会社株式を取得

10年の歳月をかけて開通したスエズ運河のその後を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。

1875年[US099]エジプトからスエズ運河会社株式の44%を400万ポンドで取得し、イギリスはスエズ運河会社の筆頭株主になった 

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ムハンマド・アリー朝エジプト総督イスマイール・パシャ(Isma'il Pasha)は対外債務の返済に充てるためスエズ運河会社の持ち分を売却することとした。イスマイール・パシャはサイード・パシャの後任である。

1875年[US099]エジプトのスエズ運河会社株式売却を知ったイギリス首相ベンジャミン・ディズレーリは、議会の承認なしに、購入資金をロスチャイルド家から借り受けて、400万ポンドでスエズ運河会社の44%を400万ポンドで購入することに成功した。

こうしてスエズ運河会社の筆頭株主となったイギリスは、ウラービー革命(1879年[US103]〜1882年[US106]を口実として軍事介入を継続した。1888年[US112]10月29日には「スエズ運河の自由航行に関する条約」をドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国、スペイン、フランス、イタリア、オランダ、ロシア、オスマン帝国と締結して、国際社会にスエズ運河はイギリス管轄(軍事占領)下の中立地帯であることを認めさせた。

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フランスが苦労して建設・開通したスエズ運河であるが、スエズ運河会社株式のほぼ半分をエジプトが売却してしまったために、イギリスが筆頭株主となり、やがて実効支配することとなってしまった。

Synmeが思うに、イギリス本土とイギリス領インド帝国を結ぶスエズ運河を獲得したことで、バルカン半島経由のロシアの南下を阻止するイギリスの本気度は更に強まったのだと思う。イギリスは、ベルリン会議1878年[US102]6月13日〜7月13日)で、1877-1878ロシア・トルコ戦争(1877年[US101]4月24日〜1878年[US102]3月3日)に大勝利したロシアの野望を砕くことになる。

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1878年[US102]6月ベルリン条約が締結されて大ブルガリア公国は3分割された。ブルガリアの領土はバルカン山脈以北に縮小され地中海に面する領土は失われた。ロシアはサン・ステファノ条約で獲得した地中海への陸路をたった3ヶ月で失ってしまった。 

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セルビア、モンテネグロ、ブルガリア支援を名目に1877年[US101]ロシアがオスマン帝国に対して宣戦布告。ロシアが勝利し、1878年[US102]3月サン・ステファノ条約を締結して、大ブルガリア公国の自治権を認めさせ、事実上保護国化した。ロシアは地中海への陸路を獲得した。 

 

文責:鵄士縦七