Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ドイツの地政学02:1806ライン同盟の成立

ドイツ帝国すなわちプロイセン王国地政学をNapoléon Bonaparteに敗北するところから学ぶ。今回はライン同盟の成立と第四次対仏大同盟の敗北。最初にクールにザックリまとめる。 

1806年[US030]7月Napoléonは第三次対仏大同盟を打ち破フランス第一帝政西南ドイツ一帯をライン同盟(Rheinbund)として保護国した。プロイセン同年10月第四次対仏大同盟を成立させロシアと共に戦ったが、プロイセンは敗北してフランスをドイツから追い出せなかったばかりかエルベ川以西の領土とポーランドを失った。

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1806年[US030]7月12日フランスは西南ドイツ一帯をライン同盟として保護国化した。ライン同盟の成立を受けて、8月6日に神聖ローマ帝国の解散が宣言された。

プロイセンはフランスに対抗するために7月にロシアと同盟を結び、続いて10月6日に第四次対仏大同盟(1806年[US030]10月6日〜1807年[US031]7月7日、参加国はプロイセン、ロシア、イギリス、スウェーデン)を成立させた。

プロイセンは、9月26日フランス軍のドイツからの撤退を要求する最後通牒を突きつけ、10月9日フランスへ宣戦布告した。しかし、プロイセンは、10月14日イエナ・アウエルシュタットの戦いでフランスから壊滅的打撃を与えられて敗北した。10月25日プロイセンの首都ベルリンは制圧され、10月27日にはNapoléonがベルリンへ入城。国内の プロイセン軍は、宣戦布告から1ヶ月も経たないうちに事実上消滅してしまった。プロイセン王は東プロイセンへ逃れ、ケーニヒスベルクを臨時首都とした。

フランスもプロイセン王を追ってポーランドに進軍、ロシアとの対決に備えた。10万の援軍を東プロイセンへ集結させていたロシアとプロイセンの連合軍は1807年[US031]2月7日〜8日アイラウの戦いでフランス軍と衝突するも勝利できず、6月14日フリートラントの戦いでフランスがロシアに大打撃を与えて勝利。6月16日にはフランス軍ケーニヒスベルクを占領し、プロイセンは完全に敗北した。

7月7日にフランスとロシアが、7月9日にフランスとプロイセンが、ティルジットの和約で講和した。6月の段階でプロイセンは完全に敗北していたので、フランスとロシアが講和した1807年[US031]7月7日をもって第4次対仏大同盟は崩壊した。

プロイセンエルベ川以西の領土とポーランドを失い、さらに1億2,000万フランの賠償金を課せられ、賠償金の支払いが終わるまでのフランス軍の駐留を認めさせられた。

エルベ川以西にはヴェストファーレン王国が置かれ、ポーランドワルシャワ公国として復活し、いずれもフランスの衛星国となった。プロイセンオーストリアと同じく従属的な同盟国となった。

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 ライン同盟はドイツ語でRheinbund、フランス語だとConfédération du Rhin。ドイツ連邦もドイツ語でDeutscher Bund。ドイツ連邦は、あくまでも複数の主権国家の連合体、つまり国家連合(Staatenbund)であり、連邦国家(Bundesstaat、英語で言うとFederation、2つ以上の国(州)が1つの主権の下に結合して形成する国家形態)でない。つまり、オーストリア連邦議会議長に過ぎない。従って、ドイツ同盟ないしドイツ連合と呼んだ方が正しい様だ。

ちなみに、現在のドイツ連邦共和国はドイツ語でBundesrepublik Deutschland、英語でFederal Republic of Germany。言うまでもなく、現在のドイツに主権は1つである。

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1803年[US027]イギリスはアミアンの和約を破棄してフランスへ宣戦布告。ナポレオン戦争が勃発した。フランス第一帝政のイギリス侵攻計画に対抗して、1805年[US029]イギリスは第三次対仏大同盟を結成。フランスは、イギリス、オーストリア、ロシア、ナポリスウェーデンの5ヶ国連合軍と戦うこととなった。トラファルガーの海戦においてフランス・スペイン連合艦隊がイギリス艦隊に敗北するも、Napoléonはウルム戦役でオーストリア軍に勝利し、アウステルリッツの戦いでロシア・オーストリア連合軍に勝利。プレスブルクの和約により、オーストリアはフランスにイストリアとダルマチアを割譲、イタリア王国を承認して同国にヴェネツィアを割譲した。1806年[US030]にフランス軍ナポリ王国を征服。Napoléonはライン同盟を成立・保護国化させて神聖ローマ帝国を解体させた。第三次対仏大同盟はイギリス、ロシア、スウェーデンの3ヶ国のみになってしまった。

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1806年[US030]ライン同盟が成立すると、プロイセンは第四次対仏大同盟を成立させた。フランスは、プロイセン、ロシア、イギリス、スウェーデンの4ヶ国連合軍と戦うこととなった。フランスはイエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセンに勝利してベルリンを制圧、プロイセン王は東プロイセンへ逃れた。フランスもポーランドに進軍、1807年[US031]アイラウの戦いでフランスはロシアを撤退させて辛勝、フリートラントの戦いでロシアに大勝、臨時首都ケーニヒスベルクを占領した。フランスとロシア、プロイセンは、それぞれティルジットの和約で講和。プロイセンは完全に敗北していたので、フランスとロシアの講和をもって第4次対仏大同盟は崩壊した。エルベ川以西にはヴェストファーレン王国が置かれ、ポーランドワルシャワ公国として復活し、いずれもフランスの衛星国となった。一方、この条約によりフランスとロシアとの間には協調関係が成立した。 

 

文責:鵄士縦七