ドイツの地政学03:1813ライン同盟の解体(1813-1814解放戦争)
ドイツ帝国すなわちプロイセン王国の地政学、今回はNapoléon Bonaparteに勝利した解放戦争を学ぶ。最初にクールにザックリまとめる。
1813年[US037]プロイセンがフランス第一帝政に宣戦布告し、ロシア、イギリスと第六次対仏大同盟が成立。ライプツィヒの戦い(諸国民の戦い)で、プロイセン・ロシア・オーストリア・スウェーデン連合軍はフランス軍を破り、ライン同盟を解体してドイツをNapoléonの支配から解放した。
1813年[US037]3月17日プロイセン王国がフランス第一帝政に宣戦布告し、ロシア、イギリスと第六次対仏大同盟が成立。オーストリア、スウェーデンも続いた。
同年10月16日-19日のライプツィヒの戦い(諸国民の戦い)で、プロイセン・ロシア・オーストリア・スウェーデン連合軍はフランス軍を破り、ライン同盟を解体(1813年[US037]10月19日)。Napoléonのドイツ支配を打倒した。
ライプツィヒの戦い(諸国民の戦い、10月16日〜19日)がナポレオン戦争における最大の戦闘であった。19万のフランス軍に対して36万の連合軍が包囲攻撃、フランス軍は戦死4万捕虜3万を出して敗走した。
連合軍はフランス国内へ進撃し、1814年[US038]3月31日にパリへ入城した。
1812年[US036]Napoléonはイギリスとの貿易を再開したロシアに遠征するも焦土作戦により撃退される。一方、ロシアはイギリスとエレブルー条約を締結して和解しており、これに1813年[US037]プロイセンが参加。第六次対仏大同盟に発展して行く。Napoléonもリュッツェンの戦いやバウツェンの戦いでロシア・プロイセン連合軍に勝利しオーストリアの仲介で休戦協定が結ばれたが、講和会議は決裂。オーストリア、スウェーデンもフランスに宣戦布告する。ロシア・オーストリア・プロイセン・スウェーデン連合軍はグロスベーレンの戦い、デネヴィッツの戦い、カッツバッハの戦い等に勝利。Napoléonはドレスデンの戦いに勝利するも追撃に失敗して戦力を失う。Napoléonはライプツィヒの戦いに敗北してフランスへ撤退する。東からの攻勢に加え、南からもイギリス・ポルトガル・スペイン連合軍がフランスに侵攻、パリは陥落した。パリ陥落によりライン同盟は解体された。フォンテーヌブロー条約によりNapoléonは退位しエルバ島に追放。フランス王政が復古した。
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1812年[US036]ロシアは遠征してきたNapoléonを焦土作戦により撃退(1812年祖国戦争)。ロシアは多大な犠牲を払いながらフランス第一帝政崩壊の転機をもたらした。
文責:鵄士縦七