Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ドイツの地政学10:1870-1871普仏戦争

ドイツ帝国すなわちプロイセン王国の地政学、今回は普仏戦争を学ぶ。プロイセン王国はフランス第二帝政に勝利し、ドイツ統一に王手を掛けることになる。事実だけ記載する。

Bismarckはエムス電報事件を図ってNapoléon IIIに宣戦布告させ、1870年[US094]普仏戦争が勃発。プロイセンは、北ドイツ連邦諸邦に加え、バイエルン王国、ヴェルデンベルク王国、バーデン大公国、ヘッセン大公国と共にフランスに勝利した。1871年[US095]フランクフルト講和条約を締結し、アルザス及びロレーヌ北部を獲得した。 

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普仏戦争(1870年[US094]7月19日〜1871年[US095]5月10日)もOtto von Bismarckの計画通りの戦争であった。 

もともとスペイン王位継承問題でプロイセンとフランスが対立していた。空位だったスペイン王位にプロイセン王の親戚(ホーエンツォレルン家)が推挙されたことに対し、プロイセンの勢力に東西を挟まれることを嫌ったフランスが反対して即位を阻止したのだ。

更に、フランスは、将来に渡ってスペインの王位候補者をホーエンツォレルン家から出さないとの約束させようと温泉地で静養中のプロイセン国王Wilhelm Iに大使を派遣した。Wilhelm Iはこれを無礼な要求として大使との会見を拒否し、この経緯をBismarckに電報で伝えた。

この普仏間の対立を好機と見たBismarckは、このWilhelm Iの電報を意図的に省略して、フランス大使が将来にわたってホーエンツォレルン家がスペイン王位に立候補しないよう強要し、プロイセン国王が大使を追い返したように文面を編集した上で、1870年[US094]7月14日に新聞や各国へ向けて公表した(エムス電報事件)。

案の定というか、Bismarckの思惑通り、7月19日にはフランス世論に応じてNapoléon IIIがプロイセンに宣戦布告した。

まず、プロイセンが戦争を仕掛けた訳ではなくプロイセンが宣戦されたことにより、北ドイツ連邦諸国が参戦した。これに加えて、ドイツ人としてのナショナリズムの高揚および記憶に新しいフランス第一帝政の脅威の記憶から南ドイツ連邦諸国も参戦した。そして、オーストリアはフランス側に参戦することもなかった。

望んで開戦を迎えたプロイセンに対し、準備不足が否めなかったNapoléon IIIが劣勢を挽回しようと前線に立った結果、1870年[US094]9月2日に捕虜となってしまう。9月4日には共和国宣言がなされ国防政府(臨時政府)が成立してフランス第二帝政は崩壊してしまった。

国防政府は戦争を継続するが、1871年[US095]5月10日フランクフルト講和条約を締結し、フランスはプロイセンに対するアルザス及びロレーヌ北部の割譲と賠償金50億フランの支払を認めた。

 

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メキシコ出兵(1861年[US085]12月8日〜1867年[US091]6月21日)の過程でNapoléon IIIはメキシコ第二帝国を成立させ傀儡政権としてマキシミリアンを皇帝に即位させていた(1864年[US088]4月10日)。しかし、Napoléon IIIはフランス軍の撤退に際してマキシミリアン皇帝を見殺しにしてしまった。

そして、このマキシミリアンはオーストリアのハプスブルク=ロートリンゲン家出身だったのだ。オーストリアがフランスを助ける前提となる信頼関係がなかったようだ。

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1870年[US094]Napoléon IIIはプロイセンに宣戦布告して普仏戦争が勃発。Napoléon IIIは捕虜となりフランス第二帝政は崩壊、フランス第三共和政はプロイセンに破れ1871年[US095]フランクフルト講和条約を締結し、アルザス及びロレーヌ北部を失い、賠償金を支払うこととなった。 

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1861年[US085]Napoléon IIIはメキシコに出兵し傀儡のメキシコ第二帝国を成立させたが、1866年[US090]アメリカ南北戦争が終結するとフランス軍を撤退させた。傀儡のメキシコ皇帝は処刑されてしまい、Napoléon IIIの権威は失墜した。 

 

文責:鵄士縦七