ドイツの地政学16:1884-1885ベルリン会議(アフリカ分割)
ドイツ帝国の地政学、ドイツ統一後は「戦わない」ための同盟外交がOtto von Bismarckによって展開される。今回は1884-1885ベルリン会議を学ぶ。Bismarckの外交力はアフリカ植民地化の「ルール」作りにまで及ぶ... 事実だけ記載する。
1884年[US108]Bismarckはベルリン会議を開催、ベルギー、ドイツ、イギリス、アメリカ、フランスなど14カ国が参加してアフリカ分割の原則を確認した。
ベルリン会議(Kongokonferenz)は、1884年[US108]11月15日から1885年2月26日までドイツ帝国の首都ベルリンで開催された。
イギリス、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、ベルギー、デンマーク、スペイン、アメリカ合衆国、フランス、イタリア、オランダ、ポルトガル、ロシア、スウェーデン、オスマン帝国の計14カ国が参加し、列強のコンゴ植民地化をめぐる対立の収拾が図られるとともに、列強による「アフリカ分割」の原則が確認された。
アフリカ分割すなわちアフリカ沿岸部における植民地化の原則とは、以下のような内容だった。Synmeが改めて述べるまでもなく、勝手な話である。このベルリン協定締結以降は、アフリカを植民地化する際にはベルリン協定調印諸国にその内容を通告するという手順が確立した。
- 占領が認められる条件はヨーロッパ人の活動(通交・交易)を保障できる実効支配が行われていることが必要である。
- ある地域を最初に占領した国がその地域の領有権をもつという先占権をもつ。(沿岸部を占領した国が内陸部の併合も認められる)
文責:鵄士縦七