ニッポンの開国29:1864四国艦隊下関砲撃事件(黒船17隻)
ニッポンの開国このあたりから攘夷そして大政奉還への流れをいっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編で学ぶ。今回は四国艦隊下関砲撃事件。最初に事実だけ。
1864年[US088]馬関海峡封鎖を不満に思っていたイギリスの駐日公使オールコックがフランス、オランダ、アメリカに呼びかけ、17隻の連合艦隊で馬関と彦島の砲台を砲撃し占拠・破壊した。
四国艦隊下関砲撃事件(1864年[US088]8月5日〜7日)に惨敗したことで、長州藩は武力での攘夷を放棄し、軍備軍制を近代化する方針に転向。薩長同盟(1866年[US090]3月7日)を締結することにもつながった。
300万ドルの賠償金は江戸幕府が支払うこととなり、これが1865年[US089]の兵庫開港要求事件につながる。
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文責:鵄士縦七