Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ニッポンの地政学01:1868李氏朝鮮による国交樹立拒絶

ニッポンの地政学を学ぶ。第1期グレートゲーム(The Great Game)終結までを学ぶために、国際社会に復帰したニッポンの地政学を学ぶ必要があるためだ。今回は明治維新直後の李氏朝鮮によるニッポンとの国交樹立拒絶を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。

鎖国中も江戸幕府李氏朝鮮と正式に国交を保っていた。1868年[US092]ニッポン(明治政府)は李氏朝鮮との国交樹立を望んだが、李氏朝鮮はこれを拒絶した。

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江戸幕府鎖国体制において、ニッポンは李氏朝鮮および琉球王国とは正式な国交があり(通信国)、清およびオランダとは(正式な国交はなく)通商関係だけがあった(通商国)。

あくまで不勉強なSynmeの印象だが、地政学に基づいた戦略的な外交というよりは、ニッポン(明治政府)としては、極めて単純な発想に基づいた外交であったのではないか?あえなく拒絶されるんだけれど...

江戸幕府李氏朝鮮は正式な国交があった。明治ニッポン(明治政府)は江戸ニッポン(江戸幕府)に取って代わった。ゆえに、明治政府と李氏朝鮮も正式な国交を樹立すべきである。単純な三段論法である。それ以上でも、それ以下でもなかったのではないか?とSynmeは思う。

李氏朝鮮はその成立直後(1401年[bUS375])から明の冊封体制下にあり、1868年当時も清の属国であった。清と国交樹立せずして、李氏朝鮮と国交樹立するという外交戦略は実現可能性があったのだろうか?

ともかく、明治ニッポンの外交戦略上の意義は、李氏朝鮮との国交樹立がスムーズに行かなかったということ。Synmeは不勉強で知らなかったが、このことが西南戦争の勃発、樺太・千島交換条約の締結、そして台湾出兵へと間接的につながって行く。

Synmeの抱く疑問は、李氏朝鮮と国交を樹立することの意義・優先度が明治ニッポン政府の内部で戦略的に議論されたのか?ということである。

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以下は3つの「ちなみに」

  1. ニッポンと李氏朝鮮(1392年[bUS384]〜1897年[US121])の国交は豊臣秀吉の「唐入り」により国交断絶となったが、徳川家康により1607年[bUS169]国交が回復された
  2. 信国である李氏朝鮮朝鮮との外交・貿易は、対馬藩の宗氏が仲介していた。李氏朝鮮国王は、江戸幕府将軍の代替わりのたびに祝賀使節朝鮮通信使あるいは朝鮮来聘)を派遣した。この祝賀使節は1607年[bUS169]から1811年[US035]までの間に12回ニッポンを訪れた
  3. 信国である琉球王国との外交・貿易は、薩摩藩の島津氏が仲介していた。琉球王国国王は、江戸幕府将軍の代替わりのとき(慶賀使)及び琉球国王の即位のとき(謝恩使)に使節を派遣した。これらの使節は1634年[bUS142]から1850年[US074]までの間に18回ニッポンを訪れた。なお、琉球王国は清に対しても進貢船を派遣していた

 

文責:鵄士縦七