Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ニッポンの地政学07:1875樺太・千島交換条約

ニッポンの地政学を学ぶ。第1期グレートゲーム(The Great Game)終結までを学ぶために、国際社会に復帰したニッポンの地政学を学ぶ必要があるためだ。今回6は樺太・千島交換条約いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編で学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。

1875年[US099]5月ニッポンはロシアと樺太・千島交換条約を締結。ニッポンは樺太を放棄した代わりに、千島列島全島と北洋漁業権を得た。

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1855年[US079]2月7日に締結した日露和親条約で雑居地とした樺太で紛争が続発したことに対応したものである。

1875年[US099]5月7日サンクトペテルブルクにおいてニッポンとロシアとの間で国境確定のために署名され、同年8月22日に東京にて批准され締約された。  

ロシアが大勝する1877-1878ロシア・トルコ戦争(1877年[US101]4月24日〜1878年[US102]3月3日)の2年弱前。ロシアはクリミア戦争(ロシア・トルコ戦争、1853年[US077]3月28日〜1856年[US080]3月30日)の敗戦から立ち直り、中央アジアでも領土を拡大しつつあり、国力が充実している状況だったとSynmeは思う。

樺太を手放してしまったことはもったいないけれど、当時のニッポンとロシアの国力を考えると、仕方なかったかなあ、とも思う。

しかし、もし征韓論の流れで拙速にこの交換条約を締結したのだとしたら、戦略性に欠け、もったいないことだったと考えざるを得ない。雑居地のままとして、豊原(現在のユジノサハリンクス)の開発を進めれば良かったのに、等とSynmeは考えてしまう。

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1854年[US078]12月ロシアのプチャーチンが黒船1隻(ディアナ)でみたび来航し、1855年[US079]遂に日露和親条約を締結した。ロシアには箱館(函館)、下田、長崎が開港され、最恵国待遇が与えられ、択捉島以南をニッポン領、得撫島以北をロシア領とし、樺太は雑居地として領土が規定された。  

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セルビアモンテネグロブルガリア支援を名目に1877年[US101]ロシアがオスマン帝国に対して宣戦布告。ロシアが勝利し、1878年[US102]3月サン・ステファノ条約を締結して、大ブルガリア公国の自治権を認めさせ、事実上保護国化した。ロシアは地中海への陸路を獲得した。 

 

 

文責:鵄士縦七