Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

コリアの歴史01大韓帝国の成立①:1895.4.17チャイナの属国から独立国へ

Synmeは日清戦争を学んで来た。関連して、コリアの歴史について大韓帝国の成立(1897年[US121]10月12日)までを3回だけ簡単に学んでおく。今回は李氏朝鮮が清の属国から独立国になるのを学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。

1895年[US119]4月17日にニッポンと清の間で締結された馬関条約により、李氏朝鮮は清から独立した。コリアは、1,000年以上続いたチャイナの属国という立場から脱した。

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コリアは、唐の冊封を受けて朝鮮を統一した新羅(668年〜935年)以来、高麗(918年〜1392年)、李氏朝鮮(1392年〜1897年)と1,000年以上続いたチャイナ(唐、元、明、清)の属国という立場から脱し、独立国となった。

Synmeが思うに李氏朝鮮の中にも独立したいと考える勢力と属国のままでいたいと考える勢力の両方がいたはずである。従って、重要なことは日清戦争を終結させる馬関条約(1895年[US119]4月17日)によりコリアが独立国となったという事実そのものだと考える。

そして、二国間の係争地について一方が宗主国の場合、他方が当該係争地を独立させるというのもよくある話なので、ニッポンがコリアを独立させたこと自体に特別な意味合いを読み取ろうとする必要はないと考える。

兎にも角にも、この独立を祝して建立されたのが独立門である。1896年11月21日定礎、翌1897年11月20日完成であるが、設計施工はロシア人建築家であった。

ちなみに、この独立門は清への服属を象徴していた迎恩門を破壊した跡地のすぐ隣に建立されている。

また、なぜロシア人建築家が設計施工したのかは次回と次々回で学ぶ。ひとつだけ示唆されるのは、せっかくコリアを独立させたニッポンはコリア内での立場をロシアに奪われたと言う点である。

 

朝鮮半島はなぜいつも地獄が繰り返されるのか 中国人ですら韓民族に関わりたくない本当の理由から引用する。 

654年に即位した武烈王はそれに飽き足らず、徹底的に属国となった上に唐を朝鮮半島に招き入れて、朝鮮統一を目指すようになった。百済攻撃も、新羅側が提案したものだとされている。

 

 1258年、モンゴルへの徹底抗戦に反対して降伏を主張する文臣グループが、中級武臣の金俊と結託してクーデターを起こした。彼らは崔氏一族の主帥である崔竩を暗殺し、崔氏一族を政権から一掃した。

 そして、国王の高宗(在位1213年〜59年)は政変の実行者たちに担がれ、モンゴルへの全面降伏を進めた。

 モンゴルは、高麗国王が抗戦の拠点である江華島を放棄して開京に遷都することと高麗の太子を人質としてモンゴル帝国に入朝させることを降伏条件として求めた。高麗王朝はこれを受け入れ、ついに全面降伏し、モンゴルの属国となった。

 

高麗から王権を簒奪した李成桂は、明を宗主国として忠実な朝貢国・属国となった。(中略)李氏朝鮮は洪武帝に国名を下賜してもらったのである。

 

(前略)怒ったホンタイジは、自ら12万の大軍を率いて、再び朝鮮に侵攻してきた(丙子胡乱)。

   この大軍に対して抗うすべもなく、朝鮮はわずか1カ月で降伏、仁祖は臣下とともに漢江の三田渡(サムジョンド)に設営してあった清の宿営地に出向き、ホンタイジに対して三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)の礼を行い、降伏した。

   清は降伏の条件として、明との断交、清の明討伐時の援軍派遣、朝鮮王は清の皇帝に対して臣下の礼を尽くすこと、清に朝貢を行なうこと、賠償金の支払いなどを約束させられた。そして、昭顕世子とその弟の鳳林大君の2人の王子と臣下が人質として清の都の盛京(現在の瀋陽)に送られた。

   さらに清は、朝鮮が清に反抗した罪とホンタイジの徳を忘れないようにと、1639年に大清皇帝功徳碑を建立させた。この碑は現在もソウルにあるが、「恥辱碑」と呼ばれている。

 

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1894年[US118]7月25日、ニッポンと清の間に日清戦争が勃発した。ニッポンが勝利し、翌1895年[US119]4月17日に馬関条約を締結。ニッポンは、清に李氏朝鮮の独立を承認させ、台湾、澎湖諸島、遼東半島を割譲させ、巨額の賠償金を支払わせた。  

 

文責:鵄士縦七