Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ドイツの地政学18:1897.11.14膠州湾の占領

さて、Synmeはチャイナ分割(瓜分)を学んでいく。今回はドイツによる膠州湾の占領を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。

1897年[US121]ドイツ人宣教師殺害事件を口実に、ドイツ東洋艦隊は膠州湾岸全域を占領した。

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欧米列強による植民地化の定番「宣教師の殺害」である。

山東省西部でドイツ人宣教師二人が殺される事件(鉅野事件、1897年[US121]11月1日)が起き、ドイツ第二帝国Wilhelm II(在位:1888年[US112]6月15日〜1918年[US142]11月9日)は「ドイツ人宣教師保護」という口実を得た。

上海にいたドイツ東洋艦隊が1897年[US121]11月14日に膠州湾(こうしゅうわん)岸全域を上陸・占領した。清国兵もいたようだが、戦闘なしに退去させられたそうだ。

ドイツ第二帝国は翌1898年[US122]に膠州湾を租借するが、実質的にこの膠州湾占領がチャイナ分割(瓜分)つまりは租借競争の引き金となった。 

Synmeが思うに、三国干渉を成功させたドイツ第二帝国皇帝Wilhelm IIは、膠州湾を占領する機会をずっと狙っていたのだと思う。

1895年[US119]4月23日に三国干渉が成功した時点で欧州列強(具体的には、ロシア、ドイツ、フランス、イギリス)の間では一斉にニッポンに対する賠償金への借款供与申出→各種権益獲得・租借というレースが横一線でスタートしていた。

つまり、ドイツとしてはチャイナ進出の千載一遇のチャンスなわけで、以前から目を付けていた膠州湾を「陣取り」したという感覚なのではないかとSynmeは思う。

三国干渉について、ニッポンでは『臥薪嘗胆』というスローガンが流布されていた様だが、そんな感情面は置いておいて冷静に観察するなら、戦勝国ニッポンは巨額のキャッシュを獲得し、ロシア・ドイツ・フランス・イギリスは借款・租借チャンスを獲得した、ということの様だ。どうやらアフリカ分割が先例になった様だ。う〜む、手強い欧州列強。

 

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1895年[US119]4月23日、ロシア、ドイツおよびフランスは馬関条約で割譲された遼東半島を清に返還することをニッポンに対して要求した。これを三国干渉と言う。 

 

文責:鵄士縦七