Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

イギリスの地政学07:1898.6.9/7.1新界(九龍半島北部)租借

ひきつづき、Synmeはチャイナ分割(瓜分)を学んでいく。今回はイギリスによる新界(九龍半島北部)の獲得を学ぶ。これはつまり香港租借地の拡大である。最初に、クールにザックリまとめる。

1898年[US122]6月9日イギリスは清とConvention for the Extension of Hong Kong Territory(展拓香港界址専条)を締結して九龍半島北部を租借した。租借期間は7月1日から99年間と定められた。

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イギリスは、まずアヘン戦争(1839年[US063]9月4日〜1842年[US066]8月29日)に勝利して虎門寨追加条約(1843年[US067]10月18日)によって香港島を獲得した。

次に、アロー号事件(1856年[US080]10月8日)を口実にフランスと共同でアロー戦争(第2次アヘン戦争)に勝利して北京条約(1860年[US084]10月、イギリスとの締結日は10月24日、フランスとは10月25日)よって九龍半島南部を獲得した。

そして、1898年[US122]6月9日イギリスは清と展拓香港界址専条(てんたくほんこんかいしせんじょう、Convention for the Extension of Hong Kong Territory)を締結して九龍半島北部を租借した。戦争もせず、香港の防衛を目的とする条約締結であった。

Synmeが思うに、イギリスの言い分としては、チャイナ本土にドイツ、ロシア、フランスが租借地を得ている中、香港のテリトリーを拡大しないと防御もままならないと言うだろうが、清としては「泣きっ面に蜂」、イギリスとしても本心は「漁父の利」Part 2ということだろう。

ともかく、ロシアに対する牽制としての威海衛(Port Edward)租借(1898年[US122]3月28日)から2ヶ月あまり、イギリスはチャイナ侵略の本丸である香港の領土拡大にも成功した。

新しく獲得した九龍半島北部を「新界」と呼ぶが、これはイギリスがNew Territoriesと呼んだことの翻訳であり、租借が事実上の領土割譲であったことがよく分かる。

この租借条約締結を根拠として、その99年後、1997年7月1日に香港がチャイナに返還されたわけである。 

Convention for the Extension of Hong Kong Territory - Wikipedia

 

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1839年[US063]イギリスは阿片取り締まりに対抗して開戦。1842年[US066]清に勝利して南京条約で講和した。イギリスは1843年[US067]虎門寨追加条約を締結して香港島を獲得。清は広州、福州、廈門、寧波、上海の5港を開港させられた上、関税自主権を喪失、治外法権を認め、最恵国待遇を与えた。

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1856年[US080]イギリスはアロー号事件を口実にフランスと共同で開戦。1858年[US082]清に勝利して天津条約を締結するが清が批准を拒否。1860年[US084]イギリス・フランス連合軍は北京を占領して北京条約を締結。清は牛荘、登州、漢口、九江、鎮江、台南、淡水、汕頭、瓊州、南京、天津を開港させられた。イギリスは九竜半島南部を獲得した。 

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1898年[US122]3月28日イギリスは旅順(Port Arthur)を獲得したロシアに対抗するため、威海衛(Port Edward)を租借する取り決めを清と結んだ。租借条約は7月1日に締結され、租借期間は25年と定められた。 

 

文責:鵄士縦七