Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ロシアの地政学38:1905.1.22-1907.6.16ロシア第1革命

日露戦争に関連してロシアの地政学を学ぶ。今回はロシア第一革命。最初に、クールにザックリまとめる。

1905年[US129]1月22日、血の日曜日事件を契機としてロシア第1革命(〜1907年[US131]6月16日)が起こった。日露戦争継続の足枷となり、10月宣言に署名せざるを得なかったロシア皇帝ではあったが、事実上の帝政を維持することに成功した。

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日露戦争(1904年[US128]2月8日〜1905年[US129]9月5日)が勃発して約1年が経つ頃、血の日曜日事件1905年[US129]1月22日)が起きた。

前年12月からストライキを行っていた労働者階級がロシア皇帝への請願行進を行なっていたのに対して軍隊が発砲し、死傷者数は約1,000人にのぼった。

ロシアでは、王権神授説に基づいた皇帝崇拝(ロシア皇帝=キリスト教(ロシア正教会)の守護者)がなされていたが、この事件を契機として反政府運動がロシア全土に拡がった。

こうして始まったロシア第1革命(1905年[US129]1月22日〜1907年[US131]6月16日)は、ロシアに日露戦争の継続を難しくさせ、日本海海戦(1905年[US129]5月27-28日でロシア海軍(バルチック艦隊)がニッポンに破れるとロシア国内でも戦争中止を求める声が強まった。

ロシア皇帝は、ポーツマス条約の締結(1905年[US129]9月5日)をもって日露戦争を終結させることには成功したが、ロシア第1革命に応じる形で10月宣言に署名(10月30日)して基本的人権を承認し政党結成を許可する等せざるを得なかった。加えて、翌1906年[US130]5月には憲法が制定され、国会(State Duma)が開かれる等して形式的には立憲体制が整えられた。

しかし、ロシア皇帝は基本法を新しく定めて国会の実権を奪い、ウィッテ首相が辞任すると次の首相ストルイピンは第2回国会を解散させ(1907年[US131]6月16日、ストルイピンのクーデター)ロシア第1革命は終結することとなった。

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文責:鵄士縦七