Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ニッポンの地政学45:1908.11.30高平・ルート協定

第1期グレートゲーム(The Great Game)終結後のニッポンの地政学を学ぶ。今回は太平洋方面に関する日米交換公文、いわゆる高平・ルート協定。最初に、クールにザックリまとめる。 

アメリカ西海岸の日本人移民排斥運動により日米関係が緊張していたところ、1908年[US132]11月30日ニッポンとアメリカは高平・ルート協定を成立させて、勢力範囲の相互承認と門戸開放政策の維持を約して友好関係を維持した。

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この頃アメリカは日露戦争を「上手いこと収めてやった」と認識し、ロシアと日本に門戸開放を遵守させて自分もチャイナ進出(満州での権益獲得)を実現させたいと考える一方で、ニッポンは「(賠償金を取れなかったのだから)南満州の権益を自国のものとしたい」と考えていた。

同時に、アメリカはハワイ・グアム・フィリピンと太平洋に進出を果たしたもののパナマ運河は建設中(1903年[US127]11月18日パナマ運河建設開始、1914年[US138]8月15日開通)なので日本海軍と敵対したくないと考え、ニッポンもアメリカとは戦争したくないからアメリカ西海岸の日本人移民排斥の動きを沈静化したいと考えていた。

ニッポンは、日仏協約の締結(1907年[US131]6月10日)と第1次日露協約の締結(1907年[US131]7月30日)をもって、南満州権益を「秘密裡に(秘密協定で)」フランスとロシアに承認させていた。

ニッポンは、その1年と少し後の1908年[US132]11月30日アメリカと太平洋方面に関する日米交換公文(いわゆる高平・ルート協定)を成立させて勢力範囲の相互承認とチャイナに関する門戸開放政策(1899年[US123]9月6日アメリカはイギリス、ドイツ、ロシア、フランス、ニッポン、イタリアに対して門戸開放通牒(Open Door Notes)を送付し、チャイナ市場における各国の経済活動の機会均等を訴えていた)の維持を公に合意することで友好関係を維持する努力を重ねた。

これはアメリカの思惑とも合致していたわけである。 

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文責:鵄士縦七