Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

地政学を学ぶフレームワーク19

前回の地政学を学ぶフレームワーク18 - Synmeの地政学がくしゅう帳で書いた通り、アメリカによるオレンジ計画(War Plan OrangeまたはPlan Orange)の策定について学ぶ。

Synmeはまだ不勉強であるし、オレンジ計画そのものは第二次世界大戦の時に再度触れる機会があると思うので、2冊の書籍から引用するに留めたい。

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まずは、藤原正彦氏の国家と教養 (新潮新書)から引用する。

 この中国をめぐり、数十年後、太平洋をはさんだ二つの帝国主義国日米がいつか激突するのではないか、と戦略的思考に長けたアメリカは予感しました。明治23年[1890年(Synme追記)]から始まったカリフォルニアへの移民を見て、日本人が中国人と違って勤勉で知的向上心の強い、白人を脅かしかねない存在と思ったのです。人種差別が始まります。ニューヨークタイムズに「アメリカに来るアジア人は劣等人種にとどまらねばならない」などという、日本人をターゲットにした論説が出るほどでした。また1904年にパナマ運河建設に着工し、太平洋に本格的に乗り出そうとするアメリカにとって、ロシア艦隊を撃滅した日本海軍は脅威となりました。さらには日露戦争により南満州鉄道や遼東半島での利権を手にした日本が気に入りませんでした。同様な利権を中国に持つ英独仏露は許せても、黄色人種の日本人は許せなかったのです。

 そんな状況下の1906年、日本人排斥がカリフォルニアで始まり、また海軍で密かに「オレンジ計画」が練り始められました。対日戦争計画です。前半の1905年には、日露戦争終結のためのポーツマス条約で日本の肩を持ってくれたセオドア・ルーズベルト大統領が、翌年にはそんなことをしていたのです。

次いで、エドワード・ミラー氏のオレンジ計画―アメリカの対日侵攻50年戦略から引用する。 

セオドア・ローズベルト大統領は、多くのアメリカ国民同様、日本がロシアを打ち破ったとき「喜びに堪えなかった」し、1905年に過酷な戦争を終わらせる調停役をつとめたときは日本の指導者たちに感謝され、自らはノーベル平和賞に輝くこととなった。

(中略)

 オレンジ・プランはささいな出来事がもとになって始められた。1891年から1906年の間に数千人の日本人移民がカリフォルニアに渡った。地元の人種差別意識の強い白人たちは、入国を阻止するため、日本人移民者のことを不当にも「不道徳、不節制、喧嘩好きで、はした金でも働く輩」ときめつけ、周囲を煽動した。

(中略)

情勢の緊迫ぶりを見て、海軍大学スタッフは米日戦争のシナリオを検討しはじめた。

(中略)

1906年の偏狭な排斥運動の遺産は大きかった。なぜならそれが合衆国をして対日戦争を計画させる端緒となったからにほかならない。

(中略)

1899年、国務長官ジョン・ヘイは中国全土を自由貿易地域とするよう、すべての国に呼び掛けた。

(中略)

1906年以前、戦略の権威者は誰も、(中略)日本がアメリカに対する脅威になるとは思っていなかった。(中略)しかし、日露戦争(1904年2月-05年9月)は、アメリカの門戸開放に対する脅威の受け取り方を根本的に変えてしまった。日本はロシアの力を極東から根こそぎにした。翌年には欧州諸国の艦隊は来るべき戦争に備えて本国へ帰還した。日本は戦闘において驚くほどの勇猛ぶりを発揮した。その近代化された艦隊の行動は自在であり、兵士たちは果敢に戦った。そして経済は戦争による重圧によく耐え得た。日本は極東における一大勢力となったのである。

(中略)

 戦争を終結させたポーツマス条約は日本の満州管理に制限を加えたが、アメリカの計画担当官らは依然としてその地域を、各国がうまみを求めて自由に参入できる場所だと考えていた。日本は考えうる唯一の違反者であった。

(中略)

1914年、[海軍(Synme注)]総会議は日米開戦の可能性を次のように要約していた。日本は米国を西太平洋から駆逐する意図を有する、そして日本人は貪欲かつ好戦的で自負心が強く、アメリカの力を軽蔑しているから、開戦の確率は高い、と。

どちらの言い分が正しいのか?については、Synmeはもう少し学んでいきたいと考えているので、今はおいておく。ただ大事なことは、外交のダイナミズム、変化の速さ、複雑さを現代のニッポン人がどれだけ理解しているかという点である。

日露戦争(1904年[US128]2月8日〜1905年[US129]9月5日)の翌1906年[US130]には、アメリカがニッポンを仮想敵国とするオレンジ計画の策定を始めていた。そして、明治ニッポンにしても1907年[US131]4月4日に初めて定められた明治40年帝国国防方針において既にロシア、アメリカ、ドイツ、フランスの順に仮想敵国としてした。

現代ニッポンでは足下にも及ばないほど外交・軍事をきちんとやっていた明治ニッポンは、ちゃんとロシアとアメリカを筆頭の仮想敵国としていたのだ。それでも、1年早くニッポンを仮想敵国として検討を始めていたアメリカに約35年後に大敗を喫することになったのだけれど…

大東亜戦争以前にニッポンが展開していた複雑な外交・軍事をSynmeは学校で習ったことはないと思うのだけれど、常識で考えれば、日清戦争以降の近・現代ニッポン外交・軍事を学びその成功と失敗を理解せずに、現代ニッポンの外交・軍事政策を構築したり、評価したりできるはずもない… 評価の前に事実を知ること、現代ニッポン人に必要であることは間違いない。

synme.hatenablog.com

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国家と教養 (新潮新書)

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オレンジ計画―アメリカの対日侵攻50年戦略

オレンジ計画―アメリカの対日侵攻50年戦略

 

 

文責:鵄士縦七