Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

フランスの地政学46

つづいて普仏戦争(1870年[US094]7月19日〜1871年[US095]5月10日)から露仏同盟(1891年[US115])までを復習する。

Napoléon IIIが捕虜となって2日後には共和国宣言がなされ(フランス第三共和政(1870年[US094]9月2日〜1940年[US164]6月22日))、フランスは普仏戦争を継続したがドイツに敗北した。1871年[US095]5月10日フランクフルト講和条約を締結し、フランス第三共和政はプロイセンに対するアルザス及びロレーヌ北部の割譲と賠償金50億フランの支払を認めた。

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Napoléon IIIはナポレオン戦争に敗北した「敗戦国」フランスの国際的立場を引き上げた。しかし、最後は「大コケ」で捕虜になった挙句、フランスはアルザス・ロレーヌを失い巨額の賠償債務を負ってしまった。

せっかく開通させたスエズ運河も、1875年[US099]スエズ運河会社株式のほぼ半分をエジプトが売却してしまったために、イギリスが筆頭株主となり、やがて実効支配することとなってしまった。 

しかし、である。フランス第三共和政には植民地開発と言う活路があった。復古王政、七月王政、第二帝政がアフリカとアジアに足掛かりを造ってくれていたのだ。

 

フランス領西アフリカに当たる地域の侵略は継続する傍ら、 フランス第三共和政はチュニジア侵攻(1881年[US105]4月)からアフリカ侵略を本格的に再開させた。1878ベルリン会議(1878年[US102])6月13日〜7月13日)によってフランスの宗主権が列強に認められたことが直接の契機のようだが、普仏戦争から約10年経って国力が回復していたはずだ。

1881年[US105]5月12日フランス第三共和政はチュニジアに勝利し、バルドー条約を締結してチュニジアの防衛・外交権を獲得、事実上の保護国化に成功した。また、フランス領赤道アフリカに当たる地域の侵略(1882年[US106]11月30日〜1910年[US134]1月15日)も開始している。

 

一方、インドチャイナでは絶好調。フランス領インドシナ連邦を着々と建設していった。

まずトンキン戦争(1883年[US117])に勝利して阮朝(グェン朝、越南)を保護国化、清仏戦争(1883年[US117]〜1885年[US119])にも勝利して清に阮朝の宗主権を放棄させた。 そして1887年[US121]10月17日にフランス領インドシナ連邦が成立、コーチシナ、アンナン、トンキン(現在のカンボジアとベトナムにあたる地域)を領土とした。

翌1888年[US122]には、シップソーンチュタイ地方(アンパバーン王国北東部:ディエンビエン省、ライチャウ省、ソンラ省;現在のラオス北部にあたる)も保護領化することに成功した。

 

そうこうするうちにドイツ第二帝国の「敵失(エラー)」でフランス第三共和政は1891年[US115]露仏同盟の締結に成功した。 ナポレオン戦争でイギリス、プロイセン、オーストリア、ロシアに敗れたフランスにとって、プロイセンおよびオーストリアの背後に位置するロシアとの同盟は地政学的な価値が大きい。

Otto von Bismarckが1887年[US111]6月18日に締結した独露再保障条約を、Wilhelm IIが1890年[US114]に更新拒絶したのだ。このエラーはドイツ第二帝国が犯した最大のものだとSynmeは思う。Wilhelm IIがWilhelm Iと同様にBismarckと信頼関係を築けていたならば、歴史は大きく違っていたかもしれない。

とはいえ、露仏同盟の締結に始まるフランス第三共和政の外交を次回学んで行く。「敵失(エラー)」はあくまで有効活用つまりはその隙につけ込むことができて初めて意義があるのだ。

 

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文責:鵄士縦七