Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

【再掲】フランスの地政学12:1853.3.28-1856.3.30クリミア戦争(ロシア・トルコ戦争)、パリ条約

【再掲にあたっての備忘録】ロシアとオスマン帝国の対立の原因を作ったのは、実はNapoléon IIIであった。勝利した上、講和会議も主催したフランス第二帝政の国際的地位は急速に高まり、バルカン半島を巡るオーストリアとロシアの対立が深まる端緒ともなり、ヨーロッパのパワーバランスを大きく変えた戦争であった。サルデーニャ王国の参戦は、機を見て敏なNice moveだったようだ。

 

今回はフランスの地政学としてクリミア戦争を学ぶ。最初にクールにザックリまとめる。

Napoléon IIIがオスマン帝国から獲得したキリスト教徒の排他的保護権にロシアが反発。1854年[US078]フランス第二帝政はイギリス、サルデーニャ王国と共にクリミア戦争に参戦・勝利し、1856年[US080] Napoléon IIIの主導でパリ条約を締結。フランス第二帝政は国際関係における発言力を増した。

f:id:synme:20180530215053j:plain

クリミア戦争の直接の原因はNapoléon IIIがオスマン帝国から獲得したキリスト教徒の排他的保護権にロシアが反発したことだった。

ロシアはオスマン帝国内の正教会信徒の保護権(キュチュク・カイナルジ条約(1774年[bUS002])で獲得したもの)を口実にクリミア戦争の開戦に踏み切ったのだが、仕掛けたのはNapoléon IIIだった。

ウィーン体制が終わること、つまり、フランスが敗戦国として位置付けられる状態から脱することが目的であるNapoléon IIIとしては、イギリスと組んでロシアに敵対する状況はウェルカムだったとSynmeは思う。

1854年[US078]3月27日に英仏はロシアに対して宣戦布告した。

1855年[US079]9月30日にセヴァストポリ要塞が陥落し、さらに12月にオーストリアがオスマン帝国側に参戦を宣言するに及んで、ロシアは戦争継続の意思を失って講和を求めた。

Napoléon IIIは休戦に反対するイギリスを押し切ってパリ講和会議を開催し、1856年[US080]3月30日にパリ条約を締結した。トルコは領土内の正教会信徒の権利を守ることを条件に領土を保全され、ロシアは黒海に艦隊を置くことができなくなった。

ロシアが敗北し、フランスが勝利することでヨーロッパ内のパワーバランスに大きな変化が起こった。そして、オーストリアとロシアのバルカン半島を巡る対立が深まっていく端緒にもなった。

「変化」を起こすことに成功したNapoléon IIIはこのクリミア戦争を契機として各種出兵・戦争を行うことになる。

--- 

synme.hatenablog.com

1853年[US077]フランスとイギリスの支援を取り付けたオスマン帝国がロシアに宣戦布告して、クリミア戦争が勃発した。ロシアはフランス第二帝政、オスマン帝国、イギリス及びサルディーニャの同盟軍に敗北。1856年[US080]にパリ条約が締結され、1840年ロンドン条約の内容が再確認された。

---

synme.hatenablog.com

1841年[US065]ロシア、イギリス、オーストリア及びプロイセンにフランス第二帝政を加えて締結されたロンドン条約(五国海峡条約)によりダーダネルス海峡およびボスポラス海峡の外国船通行が全面禁止された。 

---

世界のニュースがわかる! 図解地政学入門

世界のニュースがわかる! 図解地政学入門

 

 

文責:鵄士縦七