Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

イタリアの地政学07:1870.10.9ローマ併合(1870.7.19−1871.5.10普仏戦争)

今回はイタリアの地政学として普仏戦争を学ぶ。1870年[US094]9月2日にセダンの戦いにおいてNapoléon IIIが捕虜となると、イタリア王国はローマ併合に重たい腰を上げたのだ。最初にクールにザックリまとめる。

1870年[US094]7月19日、普仏戦争が勃発するとNapoleon IIIはローマに駐留していたフランス軍を引き揚げた。9月2日Napoléon IIIが捕虜となると、9月20日イタリア王国はローマを占領。住民投票を経て、10月9日にローマを併合した。

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1867年[US091]10月にGiuseppe Garibaldiが義勇兵を率いてローマ占領を目指したが、フランス第二帝政から軍が派遣されて補強された教皇・フランス連合軍にメンターナの戦い(Battle of Mentana、1867年[US091]11月3日) で敗北してしまう。

しかし、イタリアはまたしてもプロイセン王国のお陰で「ごっつあんゴール」を決める。

普仏戦争(1870年[US094]7月19日〜1871年[US095]5月10日) が勃発すると、あくまで「人気取り」のためにカトリックを擁護しているに過ぎないNapoleon IIIはローマ駐留軍を引き揚げてしまったのだ。イタリア王国からすれば、プロイセン様様である。 

それでも慎重だったイタリア王国。1870年[US094]9月2日にセダンの戦いにおいてNapoléon IIIが捕虜となると漸く重い腰を上げてローマ占領に乗り出した。そして、9月20日イタリア王国正規軍がピア門を突破してローマ市内に入り、占領した。
10月2日には住民投票が行われてイタリア王国への合併が支持され、10月9日に併合が完了した。1871年[US095]7月1日、フィレンツェからローマへの遷都が行われた。 

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こうして学んでくると、イタリア統一(Risorgimento)の多くは住民投票で達成されたことがよく分かる。Synmeの個人的な感想だが、民族主義だけでなくローマ帝国の威光という歴史的な背景も影響しているのではないか、と感じた。

綺麗事ばかりではなかったはずだが、住民投票という建前を踏まえてサルデーニャ王国がイタリア統一を成し遂げて行ったことは、統一と同時に国内の安定が一定程度確保されたことを意味し、この点がドイツやニッポン程ではないにしてもイタリア王国が第3の新興勢力となり得たひとつの強味だったのかもしれない。

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ちなみに、Giuseppe Garibaldiはフランス第二帝政が崩壊すると、フランス第三共和政を支援して、イタリア人義勇兵を率いてプロイセン王国軍と戦ったそうだ。う〜ん、格好良すぎる。アメリカ、スペイン、イギリス、ポーランドからの義勇兵も加えたGaribaldiの部隊は「ヴォージュ軍」と呼ばれ無敗を誇った。

後に、フランス外人部隊にイタリア人義勇兵旅団「Garibaldi」が結成され、第一次世界大戦で戦果を挙げている。

 

文責:鵄士縦七