Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

【再掲】フランスの地政学32:1891露仏同盟

【再掲にあたっての備忘録】Wilhelm IIが独露再保障条約の更新を拒絶(1890年[US114]6月17日)しても、イギリスとヘルゴランド=ザンジバル条約を締結(1890年[US114]7月1日)して順調な植民地経営を続けるドイツ第二帝国。

しかし、Otto von Bismarckの懸念はあっという間に現実のものとなる。ロシアとフランス第三共和政の接近である。

フランスの観点からは、ドイツ、オーストリアおよびイタリアへの牽制としての意義に加えて、遂に「孤立化から脱却」した意義の大きさは計り知れない。

Synmeが思うに、この「更新拒絶」がなかったら、ドイツ第二帝国がフランス第三共和政を戦争で下して「吸収」していた可能性もあるのではないだろうか?

ともかく、ここからフランス第三共和政の対ドイツ・グローバル外交が展開されるのは既に学んだ通りである。ニッポンも大いに影響を受けた。

 

フランスの地政学を学ぶ。しばらくの間、アフリカ侵略と英仏露三国協商にフォーカスする。 今回は露仏同盟。最初に、クールにザックリまとめる。 

ドイツが独露再保障条約の更新を拒絶するとすぐに、フランスはロシアとの関係を強める。翌1891年[US115]には露仏同盟が公然化した。公式には1894年[US118]に締結され三国同盟を仮想敵国とした。 

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Otto von Bismarckを失い、Wilhelm IIが犯したドイツ第二帝国の外交的過ちを、フランス第三共和政が「的確に咎めた」あるいは「ごっつあんゴール」した、だけの話であるとSynmeは思う。

普仏戦争(1870年[US094]7月19日〜1871年[US095]5月10日)に敗れて賠償金に苦しめられ、チュニジアを侵攻(1881年[US105]4月〜5月12日、バルドー条約)できたと思ったら、ドイツがオーストリア=ハンガリー帝国及びイタリア王国と三国同盟(1882年[US106])を締結。

ドイツ第二帝国がロシアと手を切ったと聞けば、フランス第三共和政がロシアと同盟を組みたいと考えるのは当然であった。

 

念のため、末尾に、関連する学習履歴を再掲します。

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1870年[US094]Napoléon IIIはプロイセンに宣戦布告して普仏戦争が勃発。Napoléon IIIは捕虜となりフランス第二帝政は崩壊、フランス第三共和政はプロイセンに破れ1871年[US095]フランクフルト講和条約を締結し、アルザス及びロレーヌ北部を失い、賠償金を支払うこととなった。

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1881年[US105]4月フランス第三共和政がチュニジアに侵攻、勝利してバルドー条約(5月12日)を締結した。フランスはアルジェリアに次いでチュニジアを保護国化(防衛・外交権を獲得)して北アフリカにおける勢力を拡張した。 

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1882年[US106]ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国にイタリア王国が加わり、三国同盟(〜1915年[US139])を締結した。

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1887年[US111]ドイツはロシアと独露再保障条約を締結した。しかしWilhelm IIが帝位に就くと1890年[US114]にドイツが更新を拒絶した。 

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独露再保障条約の更新が拒絶され、ロシアはフランスとの関係を強める。翌1891年[US115]には露仏同盟が公然化した。公式には1894年[US118]に締結され三国同盟を仮想敵国とした。 

 

文責:鵄士縦七