Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

【再掲】イギリスの地政学12:1902.1.30第1次日英同盟の締結

【再掲にあたっての備忘録】第2次ボーア戦争(1899年[US123]10月11日〜1902年[US126]5月31日)のゲリラ戦に苦しんでいたイギリスが、遂に光栄ある孤立(Splendid Isolation)を破棄して同盟外交を始めた。

同盟相手はニッポンである。直接の目的は、南アフリカから手を離せない自分の代わりに、極東の新興有色人種列強であるニッポンにロシアと戦わせ、その南下政策を阻止するためであった。

このイギリス外交方針の変化が、躍進するドイツ第二帝国に対抗することに腐心していたフランス第三共和政に「イギリスと組むのもアリなんじゃね?」と思わせたかどうかは定かではないが、三国同盟vs露仏同盟という図式がこの同盟を転機に大きく変化し始める。

 

いよいよ第1期グレートゲーム(The Great Game)終結が視野に入ってきた。今回はイギリスの地政学として、日英同盟を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。

1902年[US126]1月30日イギリスは、ロシアに対抗しチャイナでの権益を守るため、栄光ある孤立を破棄して、ニッポンと第1次日英同盟を締結した。

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第1期グレートゲーム(The Great Game、第1期は1813年[US037]〜1907年[US131])の終結がいよいよ見えてきた。1902年[US126]1月30日イギリスとニッポンは第1次日英同盟を締結した。

さて、当時のイギリスの状況を簡単にまとめてみよう。

  1. チャイナ分割(瓜分)の進展は、イギリスから見れば香港を押さえたイギリスが保持していた先行者利得が次々に失われていくことと同義であった。ロシアやフランス第三共和政が旅順(Port Arthur)や広州湾(Fort-Bayard)などの軍港・要塞を獲得していったことに加えて、ドイツ第二帝国までも軍港青島(Tsingtau(現在の表記Qingdao))の建設に加えて山東半島を支配していった。結果、チャイナにおけるイギリスの相対的な地位は明らかに低下していたのだ
  2. そもそも1882年[US106]急速に台頭して来ているドイツがオーストリア=ハンガリー帝国及びイタリア王国と三国同盟(〜1915年[US139])を締結しており、
  3. それに対抗するため、1891年に露仏同盟が秘密裏に締結され、1894年[US118]1月4日の公式の条約締結により公然化していた
  4. 植民地政策においても、南アフリカの第2次ボーア戦争(1899年[US123]10月11日〜1902年[US126]5月31日)はゲリラ戦が続いて苦戦していた
  5. そんな状況において、義和団の乱を経たロシアの満州全域支配を見ては、イギリスとしてもチャイナでの権益を守るための同盟国が必要だった

イギリスにとっては光栄ある孤立(Splendid Isolation)の破棄を意味したが、そうも言ってられない状況だったのだとSynmeは思う。なにせ、非西洋国家との軍事同盟だったのだから…

実際、他の西洋列強の同盟関係が構築されて、相対的に孤立している状況があり、ドイツが躍進して新たな競合相手として脅威となっている状況で、極東の権益がロシア、フランス、ドイツにより脅かされていた訳だから、背に腹は変えられなかった。

そして、こういう柔軟な外交ができることがイギリス人の強味なのかもしれない、とSynmeは思う。同じ状況に置かれたとしても、フランス人やドイツ人では思いつきもしないのではないだろうか。 

 

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文責:鵄士縦七