Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

【再掲】ロシアの地政学37:1904.2.8日露戦争が勃発

【再掲にあたっての備忘録】現在Synmeが学んでいる第一次世界大戦前の欧州列強の地政学の中の位置付けとしては、遂にニッポンを代理としたイギリスとロシアが激突した、という意義が大きい。

「仮に」考えると、日露戦争でロシアが勝利していた場合、ロシアは列強間のチャイナ分割競争で支配的な位置を占めることに成功していたわけであり、恐らくイギリスもロシアの「極東における南下」を容認してGreat Gameを継続していたであろう。

その場合、ロシアは「バルカン半島における南下」を一旦棚上げして、アフリカ植民地経営で潤う欧州列強をチャイナ植民地経営を拡大することで経済的に追い上げるという選択をしたかもしれない。そのためのシベリア鉄道敷設であり、ウラジオストクという命名であったのだから。

 

今回も日露戦争を学ぶ。まずニッポンの地政学の観点から考える。最初に、クールにザックリまとめる。

1905年[US129]9月5日ロシアは日露戦争に敗北し、北満州に押し戻されてしまった。

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まず、高橋洋一氏の世界のニュースがわかる! 図解地政学入門から引用する。

(省略)ロシアと日本の利害がぶつかった戦争。日本に敗戦し、東アジアへの進出を諦めざるをえなくなった。 

そう、日露戦争(1904年[US128]2月8日〜1905年[US129]9月5日)に敗れたことはロシアにとっては、西の端で新興国のドイツに南進政策を阻止されてやって来た東の端で、同じく新興国のニッポンに(ユーラシア大陸をまたぐ)往復ビンタを喰らった様な外交的敗北であったとSynmeは思う。朝鮮半島におけるニッポンの優越権を認めさせられ、南満州を割譲せざるを得なかったロシアは、北満州に閉じ込められてしまったからである。

西の端では、ドイツ第二帝国Otto von Bismarckの主導によったベルリン条約(ベルリン会議、1878年[US102]6月13日〜7月13日)により、ロシアはサン・ステファノ条約で獲得した地中海への陸路を失ってしまっていた。

しかし、ニッポンに喰らった往復ビンタにより、ロシアは再びバルカン半島の南下を模索することになる。そして、ドイツ第二帝国と対立する図式へと移行していくわけである。

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世界のニュースがわかる! 図解地政学入門

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文責:鵄士縦七