Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

【再掲】フランスの地政学38:1904.4.8英仏協商

【再掲にあたっての備忘録】フランスにとっては、色々と重要な成果を得た外交的快挙だったのかもしれない。

第1に、ドイツと対立するモロッコ権益をイギリスに承認させたことが大きい。

第2に、フランス第三共和政にとっての重要な植民地であるフランス領インドシナ連邦(1887年[US111]10月17日成立、1899年[US123]4月15日完成)へのルートとしてのスエズ運河の通行権を確保できたことも大きい。

第3に、露仏同盟と英仏協商を「両立」させたことで、日露戦争(1904年[US128]2月8日〜1905年[US129]9月5日)が勃発しても、ドイツ第二帝国から外交的工作を受けて孤立化する懸念を払拭することができたことも大きいだろう。

 

フランスの地政学を学ぶ。しばらくの間、アフリカ侵略と英仏露三国協商にフォーカスする。 今回は英仏協商。最初に、クールにザックリまとめる。 

1904年[US128]4月8日フランス第三共和政とイギリスは英仏協商を締結し、エジプトとモロッコの権益を相互承認し、タイを緩衝地帯とすることに合意した。フランスにとっては、モロッコでの優越権を認めさせたことが大きい。スエズ運河の自由通行権も確保した。

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簡単に言うと、フランス第三共和政は組むべき相手と組んだ、と言うことだとSynmeは思う。

フランス第三共和政は、シャムとメーコーン上流域に関する英仏宣言(1896年[US120]1月15日)を発表してタイを緩衝地帯としてインドチャイナにおいてイギリスと共存していくこととしていたし、 ファショダ事件(1898年[US122]9月18日)でスーダンをイギリスに譲っていた。

そこに来て、イギリスが栄光ある孤立を破棄した(イギリスとニッポンの第1次日英同盟締結(1902年[US126]1月30日))のだ。

フランス第三共和政としては、イギリスと組まない理由がない。イギリスとしても、極東で対ロシアでニッポンと組むのもメイクセンスなら、欧州・アフリカ・大西洋で対アメリカ・対ドイツでフランスと組むのもメイクセンスだったのだろうとSynmeは考える。

なので、相互に互いの権益を追加的に承認する様な形で、英仏協商(1904年[US128]4月8日)が締結された。

 

若干飛躍はあると思うけれど、「覇権を失いつつある覇権国家との軍事同盟であっても、上手くいく場合も多々ある」と言う事例に英仏協商のフランスも日英同盟のニッポンも含まれると思う。

現代の日米同盟(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約)についても冷静な視点が不可欠であるとSynmeは思う。覇権国家は、そう簡単に影響力を失わないのだ。

 

さて、英仏協商に関連して、フランスの地政学として重要なモロッコについて学んでおく。

最も重要な点は、英仏協商でイギリスがモロッコにおけるフランス第三共和政の優越を認めたことである。

そして、モロッコ - Wikipediaの位置は誰でも知っていると思うけれど、モロッコではスペイン、イギリス、フランス、ドイツがせめぎ合っていたことが次に重要な点である。

フランス第三共和政としては、英仏協商の結果、モロッコに本腰を入れることができる様になるわけである。なにせ、アルジェリアもフランスであるから、フランスには他の列強に比べて「地の利」があったはずである。 

そして、これが直接的にアフリカにおけるフランス第三共和政とドイツ第二帝国の対立につながっていく。 

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文責:鵄士縦七