Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ロシアの地政学45:1912.10.8-1913.5.30第1次バルカン戦争

ロシアの地政学として第1次バルカン戦争を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。 

1912年[US136]10月8日バルカン同盟(ブルガリア、セルビア、ギリシア、モンテネグロ)とオスマン帝国の間に第1次バルカン戦争が勃発した。バルカン同盟はオスマン帝国の欧州側領土の大半を占領して勝利し、1913年[US137]5月30日ロンドン条約を締結。オスマン帝国は被占領地域を割譲し、アルバニアの独立を承認した。

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バルカン同盟は短期間で第1次バルカン戦争(1912年[US136]10月8日〜1913年[US137]5月30日)に勝利して、領土を拡大した。

バルカン同盟を主導したロシアとしては、バルカン同盟諸国(ブルガリア、セルビア、ギリシア、モンテネグロ)がオーストリア=ハンガリー二重帝国に対抗する国力を増大させたという意義があり、かつ、ロシアの影響を強く受けたバルカン同盟諸国がバルカン半島の大半をその領土としたことで「バルカン半島南下政策」に光明を見出した、筈であった。

ところが誤算があった。ブルガリア王国にかつての大ブルガリア公国の回復を望む大ブルガリア (政治概念) - Wikipediaのナショナリズムが芽生えていたことと、トラキア(バルカン半島南東部、トラキア - Wikipedia)及びイスタンブールへの領土拡大の野心も芽生えていたことであった。

前者はセルビアやギリシアとの利害対立を招くことが不可避であり、後者はロシア自体の「バルカン半島南下政策」にとっての障害がオスマン帝国からブルガリアに置き換わることを意味した。

結局、第1次バルカン戦争の勝利は、ブルガリアに不満を溜め、バルカン同盟内の利害対立を生じさせてしまう結果を招いてしまった。

 

文責:鵄士縦七