Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ロシアの地政学28:1858アイグン条約/1856-1860アロー戦争(第2次アヘン戦争)

今回はロシアの観点からアロー戦争を学ぶ。共同出兵したのはイギリスとフランス第二帝政だったが、イギリスと共に「実利」を得たのはロシアであった。最初にクールにザックリまとめる。 

1858年[US082]ロシアは清とアイグン条約を締結し、アムール川東岸を獲得。沿海州を共同管理地とし、アムール川の航行権を認めさせた。

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アロー戦争(第2次アヘン戦争、1856年[US080]6月28日〜1860年[US084]10月/11月)の最中にロシアは清とアイグン条約(1858年[US082]5月28日)を結ぶことに成功した。

清がイギリスとフランス第二帝政を相手に弱っているタイミングで、ロシアは首尾よく極東での領土拡張に成功した。「弱っている相手を叩く」が外交・戦争の基本である。非情なのだ。Synmeが思うに、「弱っている」状況に陥ってしまっていることがその国の国力・外交力であり、そういう状況に陥れば必ず隣国や超大国がつけ込んでくるのだ。

条約によって、ネルチンスク条約(1689年[bUS087])以来、清国領とされてきたアムール川左岸をロシアが獲得した。また、沿海州ウスリー川以東の外満州)は両国の共同管理地とされ、ロシアに清にアムール川の航行権を認めさせた。

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1856年[US080]イギリスはアロー号事件を口実にフランスと共同で開戦。1858年[US082]清に勝利して天津条約を締結するが清が批准を拒否。1860年[US084]イギリス・フランス連合軍は北京を占領して北京条約を締結。清は牛荘、登州、漢口、九江、鎮江、台南、淡水、汕頭、瓊州、南京、天津を開港させられた。イギリスは九竜半島南部を獲得した。

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ネルチンスク条約(1689年[bUS087])では、ロシアと清の国境をアルグン川・ゴルビツァ川とスタノヴォイ山脈の線に定めた。対等条約であり、ロシアは不凍港を得られなかった。

ネルチンスク条約とアイグン条約・北京条約との国境比較

アムール川と支流 

 

文責:鵄士縦七

フランスの地政学13:1856-1860アロー戦争(第2次アヘン戦争)

今回はフランスの地政学としてアロー戦争を学ぶ。最初にクールにザックリまとめる。

1856年[US080]Napoléon IIIはイギリスの共同出兵の要請に応じてアロー戦争に参戦。1858年[US082]清に勝利して天津条約を締結するが清が批准を拒否。1860年[US084]フランス・イギリス連合軍は北京を占領して北京条約を締結した。

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フランス第二帝政によるアジア植民地化の第一歩である。

イギリスが共同出兵を求めると、Napoléon III(Charles Louis-Napoléon Bonaparte)はフランス人宣教師の殺害を口実にイギリスの要請を受諾、アロー戦争(第2次アヘン戦争、1856年[US080]6月28日〜1860年[US084]10月/11月)に出兵した。

北京条約によって、イギリスは追加的に九竜半島南部を獲得したが、フランス第二帝政が獲得したのは清朝が没収したフランスの教会財産の返還だけであった。ちなみにフランスと清の北京条約締結日は1860年[US084]10月25日である。

Synmeが思うに、アロー戦争に勝利できたことがフランス第二帝政にとって重要であって、イギリスの方が「戦果」が大きかったことは問題でなかった。フランスは清朝の周辺を植民地化することで「戦果」を獲得して行くことになる。 

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1856年[US080]イギリスはアロー号事件を口実にフランスと共同で開戦。1858年[US082]清に勝利して天津条約を締結するが清が批准を拒否。1860年[US084]イギリス・フランス連合軍は北京を占領して北京条約を締結。清は牛荘、登州、漢口、九江、鎮江、台南、淡水、汕頭、瓊州、南京、天津を開港させられた。イギリスは九竜半島南部を獲得した。

 

文責:鵄士縦七

イギリスの地政学03:1856-1860アロー戦争(第2次アヘン戦争)

4回こっきりのイギリスの地政学、今回はアロー戦争(第2次アヘン戦争)を高橋洋一氏の世界のニュースがわかる! 図解地政学入門に学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。

1856年[US080]イギリスはアロー号事件を口実にフランスと共同で開戦。1858年[US082]清に勝利して天津条約を締結するが清が批准を拒否。1860年[US084]イギリス・フランス連合軍は北京を占領して北京条約を締結。清は牛荘、登州、漢口、九江、鎮江、台南、淡水、汕頭、瓊州、南京、天津を開港させられた。イギリスは九竜半島南部を獲得した。

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1856年[US080]10月8日、清の官憲はイギリス船籍を名乗る中国船アロー号に臨検を行い、清人船員12名を拘束した(アロー号事件)。

アヘン戦争後の南京条約自由貿易が始まっていたものの更なる開港を求めていたイギリスはアロー号事件を口実にフランス第二帝政を誘い協同で開戦した。

イギリス・フランス連合軍が天津を制圧すると清は天津条約(1858年[US082]6月、イギリスとの締結日は6月27日、フランスとは6月28日)を結ばされた。この条約で、清は外国艦船の揚子江通行権を保証し、牛荘、登州、漢口、九江、鎮江、台南、淡水、潮州(後に汕頭に変更)、瓊州、南京の10港を開港することとなった。

しかし、清は天津条約の批准を拒否。イギリス・フランス連合軍は天津に再上陸し、北京を占領した。清は新たに北京条約(1860年[US084]10月、イギリスとの締結日は10月24日、フランスとは10月25日)を結ばされ、清は天津条約の履行に加えて、天津を開港することとなった。

別途、イギリスは九竜半島南部(九竜司地方)を獲得した。アヘン戦争で獲得した香港島の対岸部分を追加的に得たわけだ。 

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世界のニュースがわかる! 図解地政学入門

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文責:鵄士縦七

イギリスの地政学02:1858イギリス領インド帝国成立

4回こっきりのイギリスの地政学、今回はイギリス領インド帝国成立を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。

1858年[US082]インド大反乱(セポイの乱)を鎮圧したイギリスは、ムガル帝国を消滅させてイギリス領インド帝国を成立させ、イギリス東インド会社を解散させて直接統治を始めた

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インド大反乱(セポイの乱、1857年[US081]5月10日〜1859年[US083])を鎮圧すると、イギリスは2つのことを行った。

第一に、ムガル帝国皇帝を反乱の罪で有罪として廃位しビルマに流刑した。1526年[bUS250]に成立したムガル帝国は1858年[US082]8月2日消滅した。

第二に、イギリス東インド会社に反乱の全責任を負わせて解散させた。具体的には、1858年[US082]8月2日イギリスはインド統治改善法を可決し、イギリス東インド会社が保有していた全権限をイギリス国王に委譲した。事実上のイギリス領インド帝国(Indian Empire)がここに成立した。

ようやく、会社による支配が終わり、イギリスが直接統治するイギリス領インド帝国が成立したわけである。Synmeには想像もできないが、国(イギリス)が会社(イギリス東インド会社)に領土(植民地)の統治を任せるという事態が17〜19世紀にわたって存続していたのである。ニッポン人が「会社」に抱くイメージと欧米人が「会社」に抱くイメージは根本的に大きく異なるに違いない。

イギリス領インド帝国の領土は、インド、パキスタン、バングラデシュ、ミャンマー、ネパール、スリランカを含んでいた。

1877年[US101]1月1日Victoria女王が初代インド皇帝(女帝)を兼ねた。Victoria女王(在位:1837年[US061]6月20日〜1901年[US125]1月22日)は世界各地を植民地化・半植民地化して繁栄を極めた大英帝国を象徴する女王として知られ、その治世は「ヴィクトリア朝」と呼ばれる。在位は63年7か月にも及んだ。

 

文責:鵄士縦七

フランスの地政学12:1853-1856クリミア戦争(ロシア・トルコ戦争)、パリ条約

今回はフランスの地政学としてクリミア戦争を学ぶ。最初にクールにザックリまとめる。

Napoléon IIIがオスマン帝国から獲得したキリスト教徒の排他的保護権にロシアが反発。1854年[US078]フランス第二帝政はイギリス、サルデーニャ王国と共にクリミア戦争に参戦・勝利し、1856年[US080] Napoléon IIIの主導でパリ条約を締結。フランス第二帝政は国際関係における発言力を増した。

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クリミア戦争の直接の原因はNapoléon IIIがオスマン帝国から獲得したキリスト教徒の排他的保護権にロシアが反発したことだった。

ロシアはオスマン帝国内の正教会信徒の保護権(キュチュク・カイナルジ条約(1774年[bUS002])で獲得したもの)を口実にクリミア戦争の開戦に踏み切ったのだが、仕掛けたのはNapoléon IIIだった。

ウィーン体制が終わること、つまり、フランスが敗戦国として位置付けられる状態から脱することが目的であるNapoléon IIIとしては、イギリスと組んでロシアに敵対する状況はウェルカムだったとSynmeは思う。

1854年[US078]3月27日に英仏はロシアに対して宣戦布告した。

1855年[US079]9月30日にセヴァストポリ要塞が陥落し、さらに12月にオーストリアがオスマン帝国側に参戦を宣言するに及んで、ロシアは戦争継続の意思を失って講和を求めた。

Napoléon IIIは休戦に反対するイギリスを押し切ってパリ講和会議を開催し、1856年[US080]3月30日にパリ条約を締結した。トルコは領土内の正教会信徒の権利を守ることを条件に領土を保全され、ロシアは黒海に艦隊を置くことができなくなった。

ロシアが敗北し、フランスが勝利することでヨーロッパ内のパワーバランスに大きな変化が起こった。そして、オーストリアとロシアのバルカン半島を巡る対立が深まっていく端緒にもなった。

「変化」を起こすことに成功したNapoléon IIIはこのクリミア戦争を契機として各種出兵・戦争を行うことになる。

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1853年[US077]フランスとイギリスの支援を取り付けたオスマン帝国がロシアに宣戦布告して、クリミア戦争が勃発した。ロシアはフランス第二帝政、オスマン帝国、イギリス及びサルディーニャの同盟軍に敗北。1856年[US080]にパリ条約が締結され、1840年ロンドン条約の内容が再確認された。

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1841年[US065]ロシア、イギリス、オーストリア及びプロイセンにフランス第二帝政を加えて締結されたロンドン条約(五国海峡条約)によりダーダネルス海峡およびボスポラス海峡の外国船通行が全面禁止された。 

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世界のニュースがわかる! 図解地政学入門

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文責:鵄士縦七

イギリスの地政学01:1839-1842アヘン戦争

さて、4回だけイギリスの地政学を学ぶ。今回はアヘン戦争高橋洋一氏の世界のニュースがわかる! 図解地政学入門に学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。

1839年[US063]イギリスは阿片取り締まりに対抗して開戦。1842年[US066]清に勝利して南京条約で講和した。イギリスは1843年[US067]虎門寨追加条約を締結して香港島を獲得。清は広州、福州、廈門、寧波、上海の5港を開港させられた上、関税自主権を喪失、治外法権を認め、最恵国待遇を与えた。

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アヘン戦争1839年[US063]9月4日〜1842年[US066]8月29日)に敗北し、清はイギリスに対して香港島割譲と5港開港に加えて、賠償金支払と貿易完全自由化(公行の廃止)を約させられた。

そもそもイギリスは清から茶、陶磁器、絹などを輸入していた。支払代金としての銀の流出防止が必要であったため、インドで阿片を栽培して清に密輸出し、インドには自国から綿製品を輸出して、インドを介した三角貿易で茶、陶磁器、絹などの購入代金として支払った銀を回収していた。

南京条約(1842年[US066]8月29日)および虎門寨追加条約(1843年[US067]10月18日)と同じ内容の不平等条約を、清はアメリカ、フランスとも結ぶことになる。

虎門寨追加条約の内容は以下の通り。

  • 清朝は、広州、福州、廈門、寧波、上海の五港を開港し、イギリス商船による通商を認める。
  • イギリスの商人は内地旅行を禁止する。
  • イギリス人は五港の定められた地域の中で、家屋または土地を租借し居住することが出来る。
  • 双方の関税は、以後両国の共同の協定によって決める(関税自主権の喪失)。
  • イギリス人が犯罪を犯した場合、イギリスの官憲が逮捕、清朝と協議の上にイギリス官憲が共同調査する。すなわち領事裁判権を認める。
  • もし清朝が他国との条約で有利な条件を他国に与えた場合、イギリスにも同一条件を認める。すなわち清朝は片務的最恵国待遇を負う。

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世界のニュースがわかる! 図解地政学入門

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文責:鵄士縦七

フランスの地政学11:1830-1847アルジェリア侵略

さて、Napoléon III(Charles Louis-Napoléon Bonaparte)に関連するフランスの地政学を学ぶ。今回はNapoléon IIIすなわちフランス第二帝政が成立する直前に始まったアルジェリア侵略を学ぶ。最初にクールにザックリまとめる。

フランス復古王政末期の1830年[US054]6月に始まったアルジェリア侵略七月王政にも引き継がれ、1847年[US071]アブド・アルカーディルの降伏をもって侵略は完了した

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Synmeは不勉強で知らなかったが、アルジェリア地図参照)は1847年[US071]から1962年[US186]までの約120年間フランスの一部だった。言い方を換えれば、近代・現代においてフランスという国は地中海を内海として欧州大陸と北アフリカの両岸に領土を有する国として存在したのだ。現在のフランスは領土が約半分、欧州大陸のみに押し込められてしまった状態と言っても良いとSynmeは感じる。

さて、まずはフランス第一帝政崩壊後のフランスの歴史を簡単に学ぶ必要がある。1814年[US038]4月6日Napoléon Bonaparteが第六次対仏大同盟に敗れ退位するとフランス復古王政が始まった。

フランス復古王政は、Napoléon Bonaparteがエルバ島を脱出し第七次対仏大同盟に敗れるまでの間の亡命政権時代を含めて1830年[US054]まで続いた。アルジェリア侵略はフランス復古王政末期に国民の目を海外に向けよう(国民の不満を海外に逸らそう)と始められた「政策」であった。

1830年[US054]6月14日にフランス復古王政フランス軍アルジェリア上陸を成功させたが、7月29日には七月革命が起こり七月王政が成立した。七月王政アルジェリア侵略を継続。1832年[US056]からアブド・アルカーディル(عبدالقادر الجزائري)の武装抵抗がされたが、1847年[US071]には降伏した。

二月革命(1848年[US072]2月23日〜12月2日)によってフランス第二共和政が成立。Napoléon III(Charles Louis-Napoléon Bonaparte)は12月の選挙で大統領に選ばれた。

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1848年革命とは、1848年[US072]から1849年[US073]にかけて起こったウィーン体制の崩壊を招いた革命。「諸国民の春」ともいう。

フランスでは二月革命(1848年[US072]2月23日〜12月2日)によってフランス第二共和政が成立。Napoléon III(Charles Louis-Napoléon Bonaparte)は12月の選挙で大統領に選ばれた。

オーストリアでは三月革命によって宰相メッテルニヒや皇帝一家が亡命する事態となったが反革命派が巻き返した。ドイツ連邦は復活(オルミュッツ協定、1850年[US074]11月29日)、1851年[US075]12月31日には完全に旧体制に復帰した(新絶対主義)。

プロイセンでは第1次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争が勃発、シュレースヴィヒ公国ホルシュタイン公国を巡って、デンマークと戦い敗北した。

 

文責:鵄士縦七