イタリアの地政学12:1902仏伊協商
イタリアの地政学として、仏伊協商を学ぶ。アフリカ分割が進む中でエチオピアに敗れたイタリアが、三国同盟はそのままにフランスに接近する。最初に、クールにザックリまとめる。
1902年[US126]イタリア王国は秘密裏にフランス第三共和政と仏伊協商を締結し、三国同盟に関わらず、ドイツ第二帝国がフランス第三共和政を攻撃する際にはイタリアは参戦しないことを約した。併せて、フランスのモロッコでの権益とイタリアのトリポリタニアの権益を相互に承認した。
まず、イタリア王国は1882年[US106]5月20日から三国同盟に加盟していたが、そもそもオーストリアと領土問題「未回収のイタリア」を抱えていた。
三帝同盟でもロシアとオーストリアはバルカン半島で対立していたし、三国同盟もオーストリアとイタリアは「未回収のイタリア」で対立していた。ドイツの組成する同盟は常に「内輪揉め」内包型であるらしい。ちなみに、「未回収のイタリア」とは、旧ヴェネチア共和国領を指す。
次に、イタリア王国が三国同盟加盟を決めた背景に、フランス第三共和政がチュニジアのを保護国化(1881年[US105]5月12日バルドー条約締結。防衛・外交権を獲得)したことがあった。その後、イタリアはイタリア領エリトリアやイタリア領ソマリランドを獲得し植民地を増やして行ったのだけれど、エチオピアにまさかの敗戦(第1次エチオピア戦争(First Italo-Ethiopian War、1894年[US118]12月15日〜1896年[US120]10月23日))を喫した。
この敗戦を機に、イタリアの植民地政策は、フランス第三共和政の支持を得ながらトリポリタニア(現在のリビア - Wikipedia)を獲得する方向に修正されることになった。ちなみに、リビアは歴史的にトリポリタニア、キレナイカ、フェザーンという3地域に区分されるようで、イタリア王国はチュニジアの隣すなわち現在のリビアの西側海岸地域に目をつけ始めていたのだ。トリポリタニアは現在のリビアの首都トリポリを中心とする地域である。
このような状況変化を捉え、イタリア王国はフランス第三共和政に接近する。三国同盟内に留まりながら、フランス第三共和政とは戦わないと秘密条約を締結してしまうのだ。併せて、将来のリビア植民地化への布石すら打っている。
真似しろと言ってニッポンにこういった高度な外交はできなさそうであるが、少なくともイタリアはそういうことをする国だという認識はしておきたいものである。
仏伊協商(1902年[US126])については詳しい情報が得られず、とりあえず下記Wikipediaの記事を参考にした。
「未回収のイタリア」と呼ばれる南ティロル・トリエステなどを巡りオーストリアとの領土問題を抱えていたイタリアは、1902年に仏伊協商をフランスと結び、ドイツがフランスを攻撃する際にはイタリアは参加しないことを約束した。イタリアは三国協商側に接近しつつあったが、1915年4月イギリスとの間にロンドン秘密条約を秘密裏に結び、未回収のイタリアをイタリアに割譲する算段をとりつけた。5月には連合国側に付いてオーストリアに宣戦し、三国同盟は二国同盟となった。
エチオピア戦争敗北後のイタリアは、むしろフランスとの提携によって地中海・アフリカ北岸政策を進めるようになる。1900年には秘密協定を結び、フランスのモロッコにおける優越を、イタリアのトリポリ・キレナイカにおける優越をそれぞれ相互に承認することとなった。そしてこの協商により、ドイツがフランスを攻撃した場合において、イタリアは参戦義務を負わないことが定められた。
France–Italy relations - Wikipedia
Tariff issues were resolved and in 1900, France supported Italy's ambitions to take over Tripolitania (modern Libya), and Italy recognized French predominance in Morocco. In 1902 both sides came to an understanding that regardless of the Italian renewal of membership in the Triple Alliance, Italy would not go to war with France.
文責:鵄士縦七