Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

イタリアの地政学13:1911.9.29−1912.10.18イタリア・トルコ戦争

イタリアの地政学を学ぶ。今回はイタリア・トルコ戦争。最初に、クールにザックリまとめる。

1911年[US135]9月29日イタリア王国が宣戦布告してイタリア・トルコ戦争が勃発。イタリアが勝利して1912年[US136]10月18日ローザンヌ条約で講和し、トリポリタニア、フェザーン、キレナイカ(現在のリビア)を獲得した。

f:id:synme:20191015133757j:plain

青年トルコ革命勃発によりバルカン半島に民族主義が再燃し、ボスニア・ヘルツェゴビナ併合によりオーストリア・ドイツとセルビア・ロシア・フランスという対立構図が作出され、フェス条約によってフランスにがモロッコを保護国化したことによりドイツとフランスの対立が先鋭化した。

ここで、新興列強イタリア王国が新しいファクターを付け加えた。イタリア・トルコ戦争(1911年[US135]9月29日〜1912年[US136]10月18日、伊土戦争 - Wikipedia) でイタリア王国がオスマン帝国に勝利して、トリポリタニア、フェザーン、キレナイカ(現在のリビア - Wikipedia)を獲得したのである。

イタリア王国が陸戦海戦で勝利を収めていくことが、軍事同盟を括弧に締結していたセルビア、ブルガリア、ギリシャ、モンテネグロ(バルカン同盟諸国)のバルカン半島における領土拡大の野心に火をつけたのだ。

加えて、イタリア王国海軍の東地中海進出がバルカン半島におけるオスマン帝国軍の軍事行動を困難にすると言う事実上の影響も与えた。

結果的に、このことがイタリア王国のイタリア・トルコ戦争勝利にも直接的な影響を与えた。1912年[US136]10月8日にバルカン同盟諸国がオスマン帝国に宣戦布告したのだ。オスマン帝国は僅か10日後にローザンヌ条約で講和に応じている。

イタリア王国がそこまで読んでいたとはSynmeは到底思わないが、戦争は「やめ時」が重要なので、こういった周辺国の反応を開戦前に読みかつ利用する外交力が非常に重要である。日露戦争におけるニッポンは、そこそこアメリカを利用することに成功して早期の終戦を実現したが、アメリカを利用しつくせなかったがゆえに賠償金獲得を妨害されてしまった、という分析も可能であろう。

さて、改めてイタリアの戦果を学んでおこう。

  • イタリアは地中海の対岸に植民地を獲得した。近くて豊かな植民地である
  • これに伴って東地中海における航行の自由度も増した
  • 加えて、リビアを獲得したことで既に獲得していたエリトリアと併せてオスマン帝国を挟撃する能力を手に入れた
  • 最後に、アフリカ北岸のアルジェリア及びチュニジアというフランス領植民地の隣に植民地を獲得したことで、フランス第三共和政との秘密裏の協力関係(Cf.仏伊協商(1902年[US126]締結))は一層増進する(せざるを得ない)こととなった

ちなみに、このイタリア・トルコ戦争では、世界で最初の「空軍による地上攻撃」が行われたそうである。1911年[US135]11月1日前線偵察を行っていたイタリア陸軍航空隊の飛行船が、捕捉したオスマン軍部隊に爆弾を投下したとのこと…  

 

文責:鵄士縦七