フランスの地政学25:1881チュニジア侵攻、バルドー条約
ここのところドイツの地政学を学んで来ているが、アフリカの絡みでフランス、イギリスも学ぶ必要がある。今回はフランスが快勝したチュニジア侵攻を学ぶ。最初に事実だけ。
1881年[US105]フランス第三共和政がチュニジアに侵攻。フランスが勝利してバルドー条約(5月12日)を締結してチュニジアの防衛・外交権を獲得、事実上の保護国化した。
フランス第三共和政がアルジェリアを起点としてアフリカ植民地化を図る第一歩がチュニジアだった。
オスマン帝国の弱体化という側面と、チュニジアが英仏伊の債務国であったことを考えるとイタリアに対して優位に立ったと言う側面とがあった。
フランス第二帝政およびフランス第三共和政は、既にSynmeも学んだ通りアロー戦争(第2次アヘン戦争、1856年[US080]6月28日〜1860年[US084]10月/11月)を契機にインドシナ(インドチャイナ)侵略を進めていたが、チュニジアを皮切りにアフリカ侵略にも乗り出した。
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フランス復古王政末期の1830年[US054]6月に始まったアルジェリア侵略は七月王政にも引き継がれ、1847年[US071]アブド・アルカーディルの降伏をもって侵略は完了した。
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1856年[US080]Napoléon IIIはイギリスの共同出兵の要請に応じてアロー戦争に参戦。1858年[US082]清に勝利して天津条約を締結するが清が批准を拒否。1860年[US084]フランス・イギリス連合軍は北京を占領して北京条約を締結した。