Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

【再掲】フランスの地政学44:1912.3.30フェス条約

【再掲にあたっての備忘録】第2次モロッコ事件の関連では複数のフェス条約が締結されているのでややこしいけれど、このフランスによるモロッコの保護国化を取り決めたのが、いわゆるフェス条約として有名なものである。

フランス第三共和政は、ドイツとの直接対決(外交的対立)ではイギリスとロシアを味方につけておいた上で、ひたすら耐え忍んだ結果、モロッコを保護国化することに成功した。

それもこれもドイツ第二帝国皇帝Wilhelm IIの強圧的・冒険的な外交方針のお陰である。まあ、代わりに差し出す植民地(新カメルーン)を抱えているフランスやイギリスの先行者利得というものがあるのはあるが、それこそ地政学的には甘受しながら外交方針を決定すべきところである。

ともかく、バルカン半島でセルビアvsオーストリアそして間接的にロシア・フランスvsドイツという対立が先鋭化してきている環境下において、モロッコにおいてフランスvsドイツの対立が先鋭化したわけである。新興列強ドイツ第二帝国が既存勢力(イギリス、フランス、ロシア)に挑むことによって少しずつ大きくなってきた歪みが顕在化してきているという観点が重要である。

 

フランスの地政学を学ぶ。しばらくの間、アフリカ侵略と英仏露三国協商にフォーカスする。 今回はフェス条約。最初に、クールにザックリまとめる。 

1912年[US136]3月30日フランス第三共和政はモロッコ王国とフェス条約を締結し、モロッコの大部分をフランスの保護領とした。フランスは別途スペインと合意し、リーフ地方をスペインの保護領とすることに合意した。

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フランス第三共和政は、ノイカメルーンをドイツ第二帝国に譲るという代償を払いつつも、遂にフェス条約(1912年[US136]3月30日)をモロッコ王国と締結して、モロッコを自国の保護領とすることに成功した。

しかもドイツ第二帝国を外交的に孤立化させるというオマケ付きである。

また、別途、同年11月にスペインと合意してリーフ地方 - Wikipediaをスペインの保護領とした。

当時のフランスから見ると、スペインを味方につけている限り、ドイツ第二帝国と戦争になってもドイツ側の戦線に集中できる。海についてはイギリスと組んでいるので、モロッコの保護領化を実現するのと同じタイミングでスペインに一部地域(すなわちリーフ地方)の権益を認めて連携を強化できたのは一石二鳥だっただろうとSynmeは思う。

これでモロッコ事件は一応の一段落を見たことになる。

フランス第三共和政としては、ドイツ第二帝国の威嚇を受けながらもモロッコの大半を保護領化することに成功し、かつ、外交的には英仏露三国協商を含め、ニッポンやスペインとも良好な関係を構築することに成功した。

モロッコ事件における衝突を通じてドイツ第二帝国とフランス第三共和政の対立は先鋭化したものの、外交的には、この時点(フェス条約締結(1912年[US136]3月30日)時点)でフランス第三共和政の勝利は固かったと言えるのではないのかと、Synmeは考える。

とにかく近代歴史が語るのは、個別戦闘の勝利ではなく、戦略的外交を展開した国家が勝利するという近代国家間の戦争の方程式である。

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文責:鵄士縦七