Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

イギリスの地政学21:1890.7.1ヘルゴランド=ザンジバル条約

破竹の勢いで植民地帝国の拡大を続けるドイツ第二帝国とイギリスがお互いの植民地に関連する条約を締結した。今回はイギリスの地政学として、ヘルゴランド=ザンジバル条約の締結を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。

1890年[US114]7月1日イギリスはドイツ第二帝国とヘルゴランド=ザンジバル条約を締結。イギリスは、ドイツ領ヴィトゥおよびウガンダ鉄道建設用地としてドイツ領東アフリカの一部を獲得した。加えて、ザンジバル(ウングジャ島(ザンジバル島)、ペンバ島)に対する権益を承認させた。

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Synmeが不勉強でよく分からないけれど、控えめに見えるヘルゴランド=ザンジバル条約(1890年[US114]7月1日)によるイギリスの取り分は、イギリスがヴィクトリア湖北部の権益を確保することにフォーカスしていたからのようだ。
Cf.ヴィクトリア湖 - Wikipedia

ともかく、イギリスはドイツ領ヴィトゥを獲得することで現在のケニア沿岸部を掌握することができ、ザンジバルの権益を承認させることで港湾拠点の確保にも道筋をつけた。

そして、ドイツ領東アフリカの一部をドイツ第二帝国から譲り受けることで、ヴィクトリア湖とケニア沿岸地域のモンバサ(モンバサ - Wikipedia)を結ぶウガンダ鉄道(ウガンダ鉄道 - Wikipedia)の目鼻をつけることにも成功したのだ。

他に、イギリスは、イギリス領ゴールドコースト(現在のガーナ)とドイツ領トーゴランドの国境およびイギリス領ナイジェリアとドイツ領カメルーンの国境を確定させた。 

 

文責:鵄士縦七

 

ドイツの地政学26:1890.7.1ヘルゴランド=ザンジバル条約

破竹の勢いで植民地帝国の拡大を続けるドイツ第二帝国とイギリスがお互いの植民地に関連する条約を締結した。今回はドイツの地政学として、ヘルゴランド=ザンジバル条約の締結を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。

1890年[US114]7月1日ドイツ第二帝国はイギリスとヘルゴランド=ザンジバル条約を締結。ドイツ第二帝国は、北海のヘルゴランド島およびカプリビ回廊(当時のドイツ領南西アフリカつまり現在のナミビア共和国の東部)を獲得した。加えて、ドイツ領東アフリカ沿岸部(ダルエスサラーム周辺地域)に対する権益を承認させた。

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1890年[US114]3月18日に辞職したばかりのOtto von Bismarckが、ドイツ領東アフリカの(重要な)一角たりえるザンジバル諸島を北海の(ちっぽけな)ヘルゴランド島と交換した「ドイツ第二帝国の国益に反する」条約締結であった、というキャンペーンを張ったことが誤解しやすい条約の通称の由来だそうだ。

ヘルゴランド島(ヘルゴラント島 - Wikipedia)は、戦略上重要な位置にある。元々イギリスが第六次対仏同盟(ナポレオン戦争)中にデンマークから譲受け、第1次パリ条約(1814年[US038]5月30日)で領有を承認された島であったが、ヘルゴランド=ザンジバル条約によってドイツ第二帝国領となった。
Cf.Heligoland - Wikipedia

カプリビ回廊(カプリビ回廊 - Wikipedia)の獲得によって、ドイツ第二帝国はザンベジ川へのアクセスを得て、ドイツ領南西アフリカからドイツ領東アフリカへと至るルートを確保した。

ダルエスサラーム周辺地域は、後のドイツ領東アフリカの中心地域である。現代においてもダルエスサラームはタンザニア最大の都市であり、かつての首都である。現在の法律上の首都はドドマであるが、実質的な首都機能は依然としてダルエスサラームが担っているようだ。

他に、ドイツ第二帝国は、ドイツ領トーゴランドとイギリス領ゴールドコースト(現在のガーナ)の国境およびドイツ領カメルーンとイギリス領ナイジェリアの国境を確定させた。 

総じて、Bismarckには可哀想だけれど、ドイツ第二帝国にとっても十分に旨みのある条約であるようにSynmeは思う。

 

文責:鵄士縦七

 

【再掲】ドイツの地政学17:1890.6.17独露再保障条約の失効

【再掲にあたっての備忘録】1890年[US114]3月18日にOtto von Bismarckが辞職した。1888年[US112]6月15日に即位したドイツ第二帝国最後の皇帝Wilhelm IIが辞職させたのである。

「おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし(平家物語)」である。

ドイツ帝国成立(1871年[US095]1月18日)からわずか20年弱。ドイツ第二帝国の躍進はこの後も継続するのだけれども、あからさまにロシアを敵に回したことで、帝国崩壊まで30年の時計の砂が落ち始めることになる。

 

ドイツ帝国の地政学、ドイツ統一後は「戦わない」ための同盟外交がOtto von Bismarckによって展開される。今回はBismarckが締結し、Wilhelm IIが更新を拒絶した独露再保障条約を学ぶ。事実だけ記載する。

Wilhelm IIが帝位に就くと、1890年[US114]6月17日、ドイツ第二帝国は独露再保障条約の更新を拒絶した。

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1887年[US111]6月18日ドイツとロシアとの間に締結された秘密条約であり、下記のような内容を含む。

  • ドイツはロシアのブルガリアと東ルメリアにおける既得権を認める。
  • ロシアがボスポラスやダーダネルス両海峡を占領した場合には、ドイツがロシアを国際外交で支持しバルカン半島進出を認める。
  • 締約国の一方が第三国と戦争する場合、他方が好意的中立を守る。 

Synmeの学習上は、1990年にドイツがこの独露再保障条約の更新を拒絶したことがポイントであると考える。1890年[US114]3月18日にOtto von Bismarckが辞職していたからである。

3代目にしてドイツ第二帝国最後の皇帝Wilhelm II(在位:1888年[US112]6月15日〜1918年[US142]11月9日)がOtto von Bismarckを辞任させた。このWilhelm IIの敵対的な外交政策によって世界の枠組みは、Bismarckによって形成された仏vs独墺[露]伊という枠組みから、独墺[伊]vs英仏露日という枠組みに20年も経たない間に急速に変化して行き、そして第一次世界大戦へとつながるのだ。

地政学を学んでいると何度でも痛感する。平時でも、戦時でも、勝者として講和する時も、敗戦時ですら、一番大事なのは「外交」なのだ。

 

文責:鵄士縦七

  

イタリアの地政学10:1889イタリア領ソマリランドの成立

19世紀後半、アフリカの角(Horn of Africa) 周辺で列強の動きが活発になる。今回はイタリアの地政学として、イタリア領ソマリランドの成立を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。 

1889年[US113]イタリア王国がMajeerteen支族(Somali族)を支援する見返りとして保護国化を約した条約に基づき、現在ソマリア連邦共和国政府が統治するソマリア中南部地域にイタリア領ソマリランドが成立した。

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イタリア王国がエリトリア獲得(1887−1889イタリア・エチオピア戦争(1887年[US111]1月〜1889年[US113]5月2日)、ウッチャリ条約)と並行して、アフリカの角(Horn of Africa) に追加的に植民地を獲得する。 

現在のソマリア連邦共和国(ソマリア - Wikipedia)は北からジブチ、エチオピア、ケニアに国境を接する紅海及びインド洋に面した国である。

そして、現在のソマリア連邦共和国は旧イタリア領ソマリランド(エチオピアの支援を受ける連邦共和国政府が実効支配する中南部地域)と旧イギリス領ソマリランド(ソマリランド共和国。事実上は独立国家として機能するも、国際的に国家の承認はされていない)とに分断されている。再統合は非常に難しいのが現状とのこと。

後発列強のイタリア王国には、アフリカの角(Horn of Africa) 周辺しか残っていなかったようである。実際、イタリア領ソマリランドも、北西にイギリス領ソマリランドと接し、西にエチオピア帝国と接し、南にはイギリス領東インドと接している。文字通り、割って入っている印象である。

ともかく、1889年[US113]イタリア王国は、現在ソマリア連邦共和国政府が統治するソマリア中南部地域にイタリア領ソマリランドを成立させた。根拠は、Majeerteen支族(Somali族)を支援する見返りとして保護国化を約した条約に基づいていた。背景には、イギリス領ソマリランドで反乱があり、イギリス軍が内陸部から撤退したことで武力の空白地帯が生じたことがイタリアに有利に働いたようだ。

そもそもイギリスの植民地政策の基本は「イギリス領インド帝国の維持」を最重要としていたので、余程の事情(金、ダイヤモンドが採掘できた南アフリカの支配権を争ったボーア戦争)がない限り、港湾拠点の確保は重要でも、内陸部の確保は優先度が低かったようだ。一方で、「2つ目」の植民地を獲得しにいくイタリア王国にとっては、ソマリア中南部地域は、インド洋に面する植民地確保という非常に大きな意義があったようだ。

しかし、イタリア領エリトリアとイタリア領ソマリランドに植民地を確保できたことが、後のイタリア王国によるエチオピア植民地化への布石となっていくのだ。その意味では、新興列強イタリア王国の外交戦略としては正しかったと評価するべきだとSynmeは考える。

あと、これはSynmeの想像になってしまうが、フランス領ソマリランド(現在のジブチ)を有するフランス第三共和政としても、戦争中のスーダン、イギリス領ソマリランド、イギリス領東アフリカ(現在のケニア)の3地域でエピオピアと国境を接するイギリスとしても、エチオピアの隣にイタリアの植民地があることは歓迎だったであろう。

なにせ、エチオピアはアフリカでリベリア(アメリカの黒人解放奴隷が帰還して建国。1847年[US071]7月26日)と並んで独立を保った数少ない国の1つであり、イタリア軍はエチオピアに対する便利な抑止力として効果的なわけだ。自国の植民地が確保できている限り、ドイツ第二帝国でなく、イタリア王国が進出してくるのは大歓迎だったわけである。

ニッポンもチャイナでこういった「列強間の力学」が働くことを理解できていれば、ナチスドイツと同盟を結んだり、大東亜戦争を開戦することもなかった可能性があるのではないか、とSynmeは思う。あくまで外交戦略上のブレストに過ぎない。

以下のWikipediaを参照しました。

 

文責:鵄士縦七

イギリスの地政学20:1888.4.18イギリス東アフリカ会社の設立

19世紀後半、アフリカの角(Horn of Africa) 周辺で列強の動きが活発になる。今回はイギリスの地政学として、イギリス東アフリカ会社の設立を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。 

1888年[US112]4月18日 イギリスはイギリス東アフリカ会社を設立。現在のケニアにあたる地域の植民地化に着手した。

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後にイギリス領東アフリカが成立するのであるが、ベルリン会議(Kongokonferenz、1884年[US108]11月15日〜1885年[US109]2月26日)が終わった後に、ドイツ領東アフリカやドイツ領ヴィトゥを相次いで成立させたドイツ第二帝国とイギリスとの間のケニア(ケニア - Wikipedia)を巡る争いが激しくなっていくことに関連して、1888年4月18日イギリス東アフリカ会社(Imperial British East Africa Company - Wikipedia)が設立された。

背景には、エジプトから南下してきているイギリスの縦断政策の他に、ザンジバルすなわちオマーン帝国からイギリスに対する助勢の依頼があった。

ドイツ領東ドイツを成立させたドイツは、ザンジバル(オマーン帝国)をアフリカ大陸東海岸から追い払いたかった。加えて、逃亡奴隷の保護などでザンジバル(オマーン帝国)と敵対するヴィトゥをドイツ領ヴィトゥとしたのだ。

これらの動きに対抗するため、ザンジバル(オマーン帝国)は、イギリスに軍事援助と外交交渉を依頼し、イギリスがこれを受諾したというわけである。

 

イギリス領東アフリカには、ケニア共和国(ケニア - Wikipedia)とウガンダ共和国(ウガンダ - Wikipedia)が含まれるが、エチオピアとタンザニアに南北を挟まれている。

 

以下のWikipediaを参照しました。

 

文責:鵄士縦七

【再掲】ドイツの地政学17:1887.6.18独露再保障条約の締結

【再掲にあたっての備忘録】1878ベルリン会議(1878年[US102]6月13日〜7月13日)で三帝同盟(ドイツ第二帝国、オーストリア=ハンガリー二重帝国及びロシア)が崩壊してしまったので、1882年[US106]5月20日ドイツ第二帝国はオーストリア=ハンガリー二重帝国及びイタリア王国と三国同盟(〜1915年[US139])を締結した。

その後、ドイツ第二帝国は、ドイツ領カメルーン、ドイツ領トーゴランド、ドイツ領南西アフリカ、ドイツ領東アフリカ、ドイツ領ヴィトゥとアフリカ植民地を急拡大していった(他に東南アジアでドイツ領ニューギニアも成立)。

つまり、Otto von Bismarckとしては「ますます戦う理由がなくなっていっている」わけである。なので、オーストリアには内緒でロシアと独露再保障条約を締結し、第三国との交戦時に互いに好意的中立を保つことを約し、フランスとロシアに挟撃される懸念を極少化することに務めたのであろうとSynmeは思う。

 

ドイツ帝国の地政学、ドイツ統一後は「戦わない」ための同盟外交がOtto von Bismarckによって展開される。今回はBismarckが締結し、Wilhelm IIが更新を拒絶した独露再保障条約を学ぶ。事実だけ記載する。

1887年[US111]6月18日ドイツ第二帝国はロシアと独露再保障条約を締結した。ドイツ第二帝国は、バルカン半島におけるロシアの既得権を承認し、将来的なバルカン半島にも理解を示すことで、第三国との交戦時における中立維持の合意を取り付けて、露仏挟撃の恐れを軽減させた。

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独露再保障条約は、1887年[US111]6月18日ドイツとロシアとの間に締結された秘密条約であり、下記のような内容を含む。

  • ドイツはロシアのブルガリアと東ルメリアにおける既得権を認める。
  • ロシアがボスポラスやダーダネルス両海峡を占領した場合には、ドイツがロシアを国際外交で支持しバルカン半島進出を認める。
  • 締約国の一方が第三国と戦争する場合、他方が好意的中立を守る。 

上記の通り、ドイツ第二帝国が、汎ゲルマン主義を否定し汎スラブ主義を肯定して、ロシアの将来的なバルカン半島進出を承認する内容であった。

独露再保障条約は、ドイツ第二帝国がオーストリア=ハンガリー二重帝国に内緒でロシアと締結した軍事同盟的な性格を有する条約であるが、オーストリアに相談しても承認されなかったであろうことは明白である。

繰り返しになるが、ドイツやロシアと中立条約、軍事同盟の類の条約を締結しても油断してはならない。この2国は、歴史的に見てとりわけ裏切りが多いので、裏で秘密条約を結んでいる可能性を常に念頭に置いておくべきであろう。

Synmeの学習上は、1990年にドイツがこの独露再保障条約の更新を拒絶したことがポイントであると考える。1890年[US114]3月18日にOtto von Bismarckが辞職していたからである。

3代目にしてドイツ第二帝国最後の皇帝Wilhelm II(在位:1888年[US112]6月15日〜1918年[US142]11月9日)がOtto von Bismarckを辞任させた。このWilhelm IIの敵対的な外交政策によって世界の枠組みは、Bismarckによって形成された仏vs独墺[露]伊という枠組みから、独墺[伊]vs英仏露日という枠組みに20年も経たない間に急速に変化して行き、そして第一次世界大戦へとつながるのだ。

地政学を学んでいると何度でも痛感する。平時でも、戦時でも、勝者として講和する時も、敗戦時ですら、一番大事なのは「外交」なのだ。

 

文責:鵄士縦七

  

イタリアの地政学09:1887.1−1889.5.2イタリア・エチオピア戦争/1889.5.2イタリア領エリトリアの成立

19世紀後半、アフリカの角(Horn of Africa) 周辺で列強の動きが活発になる。今回はイタリアの地政学として、イタリア領エリトリアの成立を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。 

イタリア王国は1887−1889イタリア・エチオピア戦争に勝利し、1889年[US113]5月2日ウッチャリ条約を締結して、エリトリアを獲得した。

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イタリア王国は、1887−1889イタリア・エチオピア戦争(1887年[US111]1月〜1889年[US113]5月2日、Italo-Ethiopian War of 1887–1889 - Wikipedia)に勝利し、占領していたエリトリアを獲得した。

講和条約(ウッチャリ条約)では、エリトリア領有の見返りに、イタリア王国がエチオピアに経済支援と軍事援助を供することが合意された。

これにより、イタリア王国は初めての植民地イタリア領エリトリア(Italian Eritrea - Wikipedia)を獲得したのである。

現在のエリトリア国(Eritrea - Wikipedia)は北をスーダン、南をエチオピアとジブチに国境を接する紅海沿岸の国である。

後発列強のイタリア王国は、スエズ運河が開通し、コンゴ会議でルールが決められて、エチオピアと戦争をした上で、ようやく最初の植民地を獲得したわけである。

ドイツ第二帝国の相次ぐ植民地獲得とは、流石に役者が違うということで、致し方ないかとSynmeは思う。

 

文責:鵄士縦七