Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

イタリアの地政学10:1889イタリア領ソマリランドの成立

19世紀後半、アフリカの角(Horn of Africa) 周辺で列強の動きが活発になる。今回はイタリアの地政学として、イタリア領ソマリランドの成立を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。 

1889年[US113]イタリア王国がMajeerteen支族(Somali族)を支援する見返りとして保護国化を約した条約に基づき、現在ソマリア連邦共和国政府が統治するソマリア中南部地域にイタリア領ソマリランドが成立した。

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イタリア王国がエリトリア獲得(1887−1889イタリア・エチオピア戦争(1887年[US111]1月〜1889年[US113]5月2日)、ウッチャリ条約)と並行して、アフリカの角(Horn of Africa) に追加的に植民地を獲得する。 

現在のソマリア連邦共和国(ソマリア - Wikipedia)は北からジブチ、エチオピア、ケニアに国境を接する紅海及びインド洋に面した国である。

そして、現在のソマリア連邦共和国は旧イタリア領ソマリランド(エチオピアの支援を受ける連邦共和国政府が実効支配する中南部地域)と旧イギリス領ソマリランド(ソマリランド共和国。事実上は独立国家として機能するも、国際的に国家の承認はされていない)とに分断されている。再統合は非常に難しいのが現状とのこと。

後発列強のイタリア王国には、アフリカの角(Horn of Africa) 周辺しか残っていなかったようである。実際、イタリア領ソマリランドも、北西にイギリス領ソマリランドと接し、西にエチオピア帝国と接し、南にはイギリス領東インドと接している。文字通り、割って入っている印象である。

ともかく、1889年[US113]イタリア王国は、現在ソマリア連邦共和国政府が統治するソマリア中南部地域にイタリア領ソマリランドを成立させた。根拠は、Majeerteen支族(Somali族)を支援する見返りとして保護国化を約した条約に基づいていた。背景には、イギリス領ソマリランドで反乱があり、イギリス軍が内陸部から撤退したことで武力の空白地帯が生じたことがイタリアに有利に働いたようだ。

そもそもイギリスの植民地政策の基本は「イギリス領インド帝国の維持」を最重要としていたので、余程の事情(金、ダイヤモンドが採掘できた南アフリカの支配権を争ったボーア戦争)がない限り、港湾拠点の確保は重要でも、内陸部の確保は優先度が低かったようだ。一方で、「2つ目」の植民地を獲得しにいくイタリア王国にとっては、ソマリア中南部地域は、インド洋に面する植民地確保という非常に大きな意義があったようだ。

しかし、イタリア領エリトリアとイタリア領ソマリランドに植民地を確保できたことが、後のイタリア王国によるエチオピア植民地化への布石となっていくのだ。その意味では、新興列強イタリア王国の外交戦略としては正しかったと評価するべきだとSynmeは考える。

あと、これはSynmeの想像になってしまうが、フランス領ソマリランド(現在のジブチ)を有するフランス第三共和政としても、戦争中のスーダン、イギリス領ソマリランド、イギリス領東アフリカ(現在のケニア)の3地域でエピオピアと国境を接するイギリスとしても、エチオピアの隣にイタリアの植民地があることは歓迎だったであろう。

なにせ、エチオピアはアフリカでリベリア(アメリカの黒人解放奴隷が帰還して建国。1847年[US071]7月26日)と並んで独立を保った数少ない国の1つであり、イタリア軍はエチオピアに対する便利な抑止力として効果的なわけだ。自国の植民地が確保できている限り、ドイツ第二帝国でなく、イタリア王国が進出してくるのは大歓迎だったわけである。

ニッポンもチャイナでこういった「列強間の力学」が働くことを理解できていれば、ナチスドイツと同盟を結んだり、大東亜戦争を開戦することもなかった可能性があるのではないか、とSynmeは思う。あくまで外交戦略上のブレストに過ぎない。

以下のWikipediaを参照しました。

 

文責:鵄士縦七