フランスの地政学07:1814-1815ウィーン会議
ひきつづきフランスの地政学としてのウィーン会議を学ぶ。「会議は踊る、されど進まず。(The Congress dances, but it does not progress. )」最初にクールにザックリまとめる。
ウィーン会議(1814年[US038]〜1815年[US039])は遅々として進まなかったが、Napoléonのエルバ島脱出と復位の報に接して妥協が成立した。オーストリアはドイツ連邦の盟主となりロンバルド=ヴェネト王国の国王となった。ロシアは、フィンランド大公国とポーランド立憲王国を承認させ、オスマン帝国からベッサラビアを獲得。プロイセンはラインラントを含め東西に領土を拡大。イギリスは、フランスからマルタ島を、オランダからセイロン島とケープ植民地を獲得、何より制海権を確立させた。スウェーデンはデンマークからノルウェーを獲得してスウェーデン=ノルウェー連合王国となった。フランス復古王政はセネガルを植民地として承認された。その他、ネーデルラント王国が成立、サルデーニャ王国が領土拡大、ナポリ王国復古、スペイン王国復古、スイス連邦は永世中立国として承認された。
ウィーン会議は1814年[US038]9月1日〜1815年[US039]6月9日に開催された。
ナポレオン戦争の戦勝国であるオーストリア、ロシア、プロイセン及びローマ教皇領とフランスとの間で行われた講和会議だった。フランス復古王政は正統主義(諸国の王侯の家門を,フランス革命とナポレオン戦争以前の状態に復活させようというもの)、具体的には1792年以前の状態を取り戻すことを唱え、領土の縮小を防ごうとした。
基本的に戦勝国間の領土分割が主目的ながらヨーロッパの再建・安定を求める側面もあり、フランスにとっては寛大な取り決め内容となったようだ。ただ、革命政府(共和政・帝政)から王政に戻ったとは言え、その外交力・交渉力は見習うべきである。
話が飛ぶが、日本が大東亜戦争に敗れた時も、敗戦にあたっての外交努力が決定的に不足していたと考える。どの国にも良い面と悪い面、得意な面と不得手な面があると思うが、Synmeが思うに、1905年[US129]に小村寿太郎が桂ハリマン協定を覆して以来、ニッポンが一番ダメなのは今も昔も「外交」ではないか。国際情勢を捉まえる努力をせず、ニッポン人のローカルな感性のまま推測・思い込みで交渉を進めることで国益を損ね、自国民に不要な苦痛・忍耐を強いる...
さて、 各国の領土獲得状況等を見てみる。
オーストリア:ドイツ連邦(1815年[US039]6月8日〜1866年[US090]8月23日)を成立させ、オーストリア皇帝がその盟主となった。イタリア北部のロンバルディアと旧ヴェネツィア共和国領を獲得、オーストリア皇帝が王を兼ねるロンバルド=ヴェネト王国(1815年[US039]6月9日〜1866年[US090]10月12日)とした。しかし、ネーデルラント、ポーランドなどの所領を放棄しなければならなかった。
ロシア:ロシア皇帝が大公を兼ねるフィンランド大公国(1809年[US033]9月17日〜1917年[US141]3月15日)が正式に承認され、ワルシャワ公国の大部分をポーランド立憲王国(1815年[US039]6月9日〜1867年[US091])としてロシア皇帝が王を兼ねる事実上のロシア領とした(第四次ポーランド分割)。また、オスマン帝国からベッサラビアを獲得した。
プロイセン:ザクセン王国の北半分、ワルシャワ公国の一部、ラインラント、旧ルクセンブルク公領の一部、オラニエ=ナッサウ家のドイツ内の所領などを獲得。また、スウェーデンから西ポンメルンを獲得。東西に領土を拡大した。
イギリス:フランスからマルタ島、イオニア諸島(ギリシア西岸)を獲得。オランダからセイロン島とケープ植民地を獲得する。何より、ナポレオン戦争緒戦の中で各国の海軍を打ち破ったことによる制海権の確立がイギリスにとっての最大の成果とSynmeは考える。ちょうど第二次大戦におけるアメリカによる制海権確立と同様だ。
フランス復古王政:ルイ18世が即位してブルボン朝が復活、フランス革命前の状態を回復した。また、セネガルを植民地として承認された。
オランダ(ネーデルラント):ネーデルラント王国(1815年[US039]6月9日〜1839年[US063]4月19日)が成立。その領土は現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルグに相当した。なお、旧ルクセンブルク公領は新たにネーデルランド王が大公を兼ねるルクセンブルク大公国とし、ドイツ連邦に加盟した。また、南ネーデルラントの大部分は1830年に独立してベルギー王国となった。
スウェーデン:デンマークからノルウェーを獲得し、スウェーデン=ノルウェー連合王国(1814年[US038]11月4日〜1905年[US129]10月26日)となった。
サルデーニャ:旧ジェノヴァ共和国領を獲得。
ナポリ:フェルディナンド4世が復位してシチリア・ブルボン朝が復活。翌1816年にシチリア王国と正式に合併して両シチリア王国(1816年[US040]12月8日〜1861年[US085])が成立する。
スペイン:フェルナンド7世が復位してスペイン・ブルボン朝が復活。
スイス:新たに5つのカントン(州)を加え、永世中立国として承認された。
---
フィンランド大公国は、フレデリクスハムンの和約(1809年[US033]9月17日、第2次ロシア・スウェーデン戦争)によってスウェーデンからロシア帝国にフィンランドが割譲されたときに建国され、ウィーン会議によって正式に承認された。
---
エスペラント語は、ポーランド立憲王国下で勃発した一月蜂起(1863年[US087])以降の独立運動の中で創作された。
---
1806年のロシア・トルコ戦争の結果としてルーマニア人のモルダビア公国領を、オスマン帝国がロシア帝国に一部割譲した。ロシア側が割譲した公国東部地方をベッサラビアと呼称した。現モルドバ共和国と重なる地域。
---
スウェーデンとノルウェーの両王国は、キール条約(1814年1月14日、ノルウェーがデンマークからスウェーデンに割譲された)、ノルウェーの独立宣言、スウェーデンとの短い戦争、1814年8月14日のモス条約、および11月4日のノルウェー憲法改正を経て、一人の君主のもとでの同君連合として結ばれていた。同じ日にノルウェー議会は国王にスウェーデン王カール13世を選んだ。
言うまでもないことだが、デンマークはフランス第一帝政の唯一の対等な同盟国であった。領土の喪失は免れなかったとSynmeは考える。また、ロシアが果たした役割の大きさに鑑みても、フィンランドは正式にロシアのものとせざるを得ず、ノルウェーがスウェーデンのものとなる結果に至ったと言える。
---
イタリア王国の成立:1861年2月18日ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はトリノで第8期サルデーニャ議会を召集。3月14日に議会はヴィットーリオ・エマヌエーレ2世をイタリア王と宣言し、3月27日にはローマを首都と宣言した(依然として王国の統治下には入っていなかったが)。この3か月後、生涯の事業をほぼ終えたカヴールが世を去った。彼の最後の言葉は「イタリアはつくられた。すべてが安心だ」であった。
---
文責:鵄士縦七